歴史文化学科歴史学専攻(現、研究コース)は、1992年(平成4年)開設され、2022年(令和4年)に30年を迎えます。そこで、これまでお勤めいただいた諸先生、卒業生の皆さんから、思い出や近況、大学への期待などを寄せていただくことにしました。第1回目は、創立時に着任された河内良弘名誉教授です。
1992年(平成4)4月、歴史文化学科は発足した。その後の1年間の歩みを私の知る範囲で以下に記しておきたい。
4月9日朝、私は大久保昭教学長に着任の挨拶をし、各部局をまわって新任の挨拶をし、会計課で書類を受け取り、午後1時から開かれた天理大学文学部最初の教官会議に出席した。これをもって天理大学文学部歴史文化学科が発足した。歴史文化学科(歴史学専攻)の教官は、専攻主任で日本史担当の近江昌司先生、日本史担当の谷山正道先生、西洋史担当の若原憲和先生、それと東洋史担当の私の4人だった。翌4月10日10時、天理大学体育館で入学式が挙行され、その後私は学校本部に行き理事から辞令を受け取った。
4月13日1時から新入生のためのオリエンテーションが始まった、私の担当科目は東洋史と史学概論で、2科目とも月曜日に集中しており、遠方から通学する学生さんには「超早起き」の負担をかけてしまい、すまないことであったと思っている。
新入学の学生さん達に授業で始めて顔をあわせたとき、私は何を目標として指導したらよいかと悩んだ。何もかも新しい事だらけの船出だった。もし教室で向き合う学生さんが未来の大学教授を目ざす大学院文学研究科東洋史学専攻の学生なら、それなりのカリキュラムを頭にえがき、その目標に向かって全力を注ぐことはできる。しかしここは大学院ではない。ご父兄の要望もあろうが、大部分の新入生は恐らく卒業後はお道の布教伝道か会社勤めか公務員としての活躍を志望する若者であろう。しかし稀ではあるが将来、中学・高校の教師を目ざす学生がいるかも知れない。彼等の要望を満たすには必ず大学院卒の肩書きと学力を備えていなければ、競争の激しいこの世界では教員として採用してもらえないであろう。とすれば教室で授業をするかたわら、他大学の大学院受験を目ざす学生の受験のお手伝いが私にはできないか。私は彼等のために、そして或いは未来の大学教授となるかもしれない若者のために、何かしてあげられないかと思った。
5月31日、歴史学科新入学生のための懇親小旅行があった。近鉄奈良駅行基像前で集合、ならまち散策。元興寺、格子の家、奈良町資料館、今西家書院等を見学した。近江先生の詳しくてよく分かる素適な説明が今も私の耳に残っている。
8月2日朝、バルセロナ・オリンピック、女子マラソンで有森裕子選手、銀メダル。
天理大学に勤務していると意外な仕事が回ってきて面食らうことがある。天理大学を是非受験させてくださいと、奈良県内の各高等学校を、先生方が手分けして勧誘に回るのである。私も10月12日、郡山高校、城内高校、片桐高校、西ノ宮高校を順にまわり、受験担当の先生に天大の学内案内書とボールペンなどのお土産をおわたししてお願いした。この受験生勧誘の旅は、今でも行われているのだろうか。
翌1993年1月6日、皇太子妃殿下に小和田雅子さんが決定した、とテレビが報じた。
1月11日(月)、天大の新年の初授業。1月26日、全学参拝。2月19日、入試。2月25日、教授会、入試委員会、入試合格者の内定。3月2日、卒業判定教授会。3月22日、卒業式(第2体育館)。3月25日4時30分より天大教職員懇談会(長寿飯店)。以上が天理大学文学部歴史文化学科の最初の一年間の大体の歩みである。
あれから30年という長い月日が流れた。「中学・高校教師を志望する学生さんの為のお手伝い」という私の念願は果たされなかった。もしや教師志望ではと思われる学生さんにそれと無く声をかけ、受験英語や受験漢文の講読に誘ったが、みな途中でやめていった。
ここで私自身の仕事について記すことをお許しいただけるだろうか。私の長年の夢であった『満洲語辞典』の編纂事業は、1992年、天理大学歴史文化学科に職をえてから、実現に向けて加速度的に進展しはじめた。編纂資金としては幸いにトヨタ財団から提供を受けた。編纂実務の環境としては冷暖房設備のととのった快適な研究室が天理大学から教師全員に備えられていた。編纂を電子機器で進めるとなれば、専門家の援助が不可欠となる。この難問は幸いに香川大学教授 本田道夫先生の協力が得られることになり解決した。データの入力には、部分的に天理大学の学生さんに協力を仰いだ所もある。天大停年退職(1999年)後、編纂事業は私と本田先生との二人三脚でつづけられ、2014年 ようやく原稿が完成し、『満洲語辞典』の書名で2014年6月30日の日付で京都・中西印刷株式会社から出版された。そして2016年6月、親しい良き友人 京都大学名誉教授 間野英二先生の推薦を受け、日本学士院において、天皇・皇后両陛下のご台臨のもと、日本学士院賞受賞の光栄を受けた。その翌年、2017年11月10日、天皇陛下より瑞宝中綬章を賜り、宮中の豊明殿で、天皇陛下に叙勲の御礼を言上する儀式に出席した。私は全受賞者三百数十名が居並ぶ列外の数歩前に一人立たされ、天皇陛下をお迎えし、陛下に御礼の言葉を申し上げた。「千と千尋の神隠し」のような異次元の世界に生きる不思議な感覚の一日であった。
その後も『満洲語辞典 改訂増補版』『漢語語彙索引』および『日本語語彙索引』の出版の為の編纂作業は続けた。出版の費用はもはや尽き果てていたが、思いも寄らぬ事がまた起きた。
2017年末頃、中国満洲族の方でテレビ台長として日本で活躍している完顔祺閣という方が拙宅にインタビューに見えた。私は「出版費がない」と日頃の愚痴と不満を初対面の完顔先生に失礼をもかえりみず、ぶちまけたのであろう。完顔先生は帰宅後ただちに中国満洲族の人びとに呼びかけ、『満洲語辞典 改訂増補版』および『漢語語彙索引』『日本語語彙索引』出版のための義援金募集をおこない、多額の義援金を私に手渡された。私は中国満洲族の人びとの誠意のこもった義援金をみて驚き、その熱意に圧倒され、涙を流し、真心のこもった義援金を額に押し頂いて感謝して拝受した。この義援金により2018年10月、『満洲語辞典 改訂増補版』が、2021年3月には『漢語語彙索引』ならびに『日本語語彙索引』の出版が可能となった。『漢語語彙索引』および『日本語語彙索引』の表紙には、「中国満洲族同胞捐刊」の文字を明記し、義援金を送られた人びとの姓名と金額とを記し、長く感謝の意を表すことにした。
また、2018年3月、内閣総理大臣 安倍晋三様より、4月21日新宿御苑で開催の「平成三十年桜を見る会」への招待状をいただいた。たまたま妻が病気で出席できなかったが、万難を排しても出席すべきであったと、今も思い出すたびに悔やんでいる。
以上の事を振り返ってみると、『満洲語辞典』の編輯は頓挫するたびに、次々と不思議なことが起きて作業を完成へと導いていただいている。そこには目に見えない方の力が加えられて問題を解決し、完成に導いて下さっていたようだった。私はこの作業に協力して下さった一人一人を覚えて感謝するのは勿論のことであるが、すべての背後にあって作業を完成に導いて下さった神様に深く感謝申しあげたい。 河内良弘