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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待】柳沢保光と和歌

第5回 ●平成29年10月28日(土) 午後1:30
テーマ ●柳沢保光と和歌
          ●講師  公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会 学芸員 佐竹朋子

内容

 本講座は、柳沢保光が、誰からどのように和歌を学んでいたのか、学んだ和歌をどのように活かしていったのかについて検討することで、保光が和歌に取り組んだ意義について明らかにすることを目的とする。

これまでの研究において、柳沢家は、吉保・吉里・信鴻・保光の4代にわたって和歌に秀でていたことが指摘されている(福井久蔵『諸大名の学術と文藝の研究』厚生閣、1937年)。また、宮川葉子氏(『柳沢家の古典学(下)—文芸の諸相と環境—』(青〓(簡の中は月)舎、2012年))は、吉保・吉里が取り組んだ和歌について具体的に明らかにした。米田弘義氏(『大和郡山藩主 松平(柳沢)甲斐守保光—茶の湯と和歌を愛した文人大名 堯山』(公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会、2013年))は、保光について、赤膚焼を再興し、和歌に始まり茶道・華道・盆石・俳句など、様々な学芸に優れた大名であったことを明らかにした。ただし、以上の研究では、江戸時代の大名が和歌を詠むことは、漢詩同様一般教養として必要なこととの認識が前提であるため、柳沢家の当主が和歌に取り組んだ意義についてまでは論じられていない。

ところが、吉保から保光までの柳沢家当主が取り組んだ和歌を概観すると、吉保と吉里、信鴻・保光とでは、和歌に取り組む目的に違いがあったことがわかる。すなわち、吉保・吉里は、北村季吟から古今伝授を受けたこともあってか、霊元院から詠草への添削を受けることができ、霊元院や霊元院歌壇で活躍した公家と和歌を通じた交流があった。つまり、吉保・吉里が和歌に取り組んだ意義とは、和歌を通じて、霊元院へのルートを確保できたことにある。吉保は大老格ではあったが、一代で成り上がった新興大名でもあった。そのため、霊元院と、和歌を通じたルートがあるということは、他の大名家にはない柳沢家独自の強みになったのである。

では、信鴻・保光が和歌に取り組んだ意義とはどこにあったのか、本講座では、保光の和歌への取り組みに注目して、当財団が所蔵する保光の公用日記である『虚白堂年録』や歌学書などをもとに、第1章から第4章において検討を行った。

まず、「1.柳沢保光の履歴」では、保光は、宝暦3年(1753)4月4日に誕生し、父は柳沢信鴻、母は松代藩主真田信弘息娘輝子であったことに始まり、文化14年(1817)に死去するまでの履歴について紹介を行った。

続いて、「2.冷泉家へ入門」では、保光は、和歌を家業とする公家冷泉家に入門したが、安永3年(1774)7月、師匠である冷泉為村が死去したことで、冷泉家門を離れたことを説明した。

「3.日野家へ入門」では、冷泉為村亡き後、和歌を家業とした公家日野資枝に入門し、寛政9年(1797)には『三部抄』の伝授を受けていたことについて検討した。すなわち、『三部抄』の伝授とは、御所伝授でいうところの、第二階梯三部抄伝授にあたることから、保光は、日野資枝から、御所伝授の第二階梯まで伝授されていたことが明かである。つまり、保光は、当時、最高ともいえる和歌の教育を受けていたのである。

最後に、「4.柳沢保光と和歌を通じた交際」では、保光は、公家に入門して学んだ和歌を、武家の世界において、どのように活かしていったのかについて、検討を行った。

保光は、和歌を家業とする公家に入門する一方、大名が開催する和歌会に参加するなどして和歌を研鑽していった。そして、安永10年(1781)1月13日、保光が詠んだ和歌が、後桜町院の叡覧に浴したことで、当時の武家社会において歌人として認められたと言える。また、第11代将軍徳川家斉の御台所である薩摩藩主島津重豪娘茂姫の和歌と書道の師範となったことで、島津家との縁ができた。そして、保光の孫である保興と島津重豪の末娘淑子とが婚姻関係を結ぶに至ったのである。

以上から、保光が和歌に取り組んだ意義とは、保光が和歌に秀でることで、柳沢家は和歌に秀でた家として武家社会において際立ち、引いては、家の安定を保つことへも繋がったことにあると言えよう。
 

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