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 【生涯学習】

《公開講座記録》【地域研究への招待】フランス・オラドゥール村虐殺事件 —独仏和解の視点から—

第2回 ●平成29年6月10日(土) 午後1:30
テーマ ●フランス・オラドゥール村虐殺事件 —独仏和解の視点から—
          ●講師  中祢勝美 地域文化学科准教授

内容

 ユダヤ人,ジプシー,同性愛者,障害者など600万人もの命を奪ったナチスによるホロコースト(大量殺戮)の主な舞台がドイツ以東だったことは広く知られていますが、フランスでも全村民の惨殺を企図した悲劇が起きました。今回の講座では、日本であまり知られていないこの事件を振り返るとともに、戦後の裁判における問題点や独仏の歴史的和解の意義について考えてみました。

事件はきょうからちょうど73年前の1944年6月10日に、フランス中部、リムーザン地方の小さな村で起きました。夏の陽射しが照りつける午後2時頃、ナチスの武装親衛隊(SS)の兵士約150人が突如現れ、村を包囲・封鎖すると、身分確認にかこつけて全村民を広場に集合させます。1時間ほど後、まず女性と子どもが教会へ、続いて男性が6つの納屋に別々に連行され、午後4時頃、1発の銃声を号令に、教会と納屋で一斉射撃と焼き討ちが開始されたのでした。

教会では207人の子どもを含む452名が犠牲になりました。ただひとり奇跡的に生還した女性の証言によれば、ドイツ兵は一斉射撃をした後、まだうめき声が聞こえる人の山の上に藁や柴を投げ込み、火を放ったそうです。炎と煙に包まれた教会は炉の内部のように高温になり、溶けた鐘が天井もろとも床に落ちました。一方、6つの納屋に押し込められた190名以上の男性のうち、炎と銃弾をかいくぐって生還できたのは僅かに5人。オラドゥール事件の犠牲者の総数は642名ですが、実は正確な数字が確定するまで2年近くかかっています。身元確認ができた遺体は犠牲者全体のたった8%しかいませんでした。オラドゥール事件の特異性は、何と言っても凄惨なその手口にあるのです。

背景として見逃せないのは、連合軍によるノルマンディー上陸作戦(6月6日)の数日後に事件が起きた点です。戦局を決定づけた同作戦は、駐仏ドイツ軍の危機感を募らせる一方、対独レジスタンスに身を投じたパルチザンの士気を俄然高揚させました。事件の2日前、チュールという町でパルチザンに急襲されたドイツ軍は多数の兵士を失いましたが、南フランスに司令部を置いていた第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」は、翌9日、ノルマンディーに北進する途上、チュール市民に容赦なく報復しました。オラドゥール村が標的にされたのも、民間人に恐怖(=テロ)を覚えさせることでレジスタンスの気勢を削ぐ狙いがあったとする「見せしめ説」が近年の研究では有力です。

戦後、村はド・ゴールの意向で廃墟のまま保存されることが決まるなど、早くからナチスの野蛮さの象徴として国民に共有される記憶となりました。しかし、1953年のボルドー裁判では、虐殺を計画・指揮した将校が一人も出廷せず、事件の真相が解明されるどころか、21名の被告のうち、1940年にドイツに併合されたアルザス地方の出身者が14名含まれていたことが判明して大いに物議を醸しました。彼らは、志願して武装SSに入隊した1名を除き、自らの意思に反して強制召集された「マルグレ・ヌ」の青年たちだったからです。裁判の結果、「同胞」の殺害に加担したアルザス出身者には5~7年の禁固刑が下されましたが、この判決には、当然ながらアルザスの市町村長たちから怒りと抗議の声が上がります。オラドゥール側もこの判決には激しく反発しました。判決結果が生存者や犠牲者遺族にとって信じられないほど軽微だったからです。事態を憂慮したフランス国民議会は、激論の末、判決の一週間後に特別法案を可決し、13人の「マルグレ・ヌ」に恩赦を与えて釈放しましたが、この措置は完全に裏目に出ました。オラドゥール村は、国家とのすべての関係を断絶すると宣言し、国家が墓地に建てた納骨堂に犠牲者を葬ることさえ拒否したのです。村とフランス政府の断交状態は、20年以上続きました。

独仏の和解を象徴する場面といえば、ド・ゴールとアデナウアーが和解を誓ったランス大聖堂でのミサ(1962年)と、ミッテランとコールが手をつないだヴェルダンでの第一次世界大戦戦没兵合同追悼式典(1984年)がまず想起されます。独仏首脳が見せた和解のパフォーマンスは、たしかに両国民の集合的記憶として定着していきましたが、オラドゥール村は別でした。国家レベルで和解が進んでも、ドイツの元首がオラドゥールを訪れることはありませんでした。

こうした経緯を踏まえると、2013年9月に実現したドイツのガウク大統領によるオラドゥール訪問は、村にとって、独仏両国にとって、そしてEUにとって歴史的な訪問だったと言えます。この訪問は、1995年から19年間村長を務めたフリュジエ氏の、「誰かが行動を起こさないと何も変わらない」という信念に基づくものでした。ドイツ側との交流を少しずつ広げてきた村長は、生存者や犠牲者遺族会の理解と信頼を築き、独仏友好条約(エリゼ条約)が50周年を迎えた2013年2月、自らドイツ首脳の来訪を打診したのです。

2013年9月4日。この日、フランスのオランド大統領とともに村に招かれたガウク大統領は、まず生存者エブラスさんの案内で廃墟の村をじっくり歩いて回りました。女性と子どもが惨殺された教会では、両脇から挟むようにエブラスさんの手を握る両大統領の姿がありました。墓地で花輪を捧げ、犠牲者遺族会の人々と言葉を交わした後、オランド大統領に続いてガウク大統領が演説を行いました。その演説で私が注目したのは以下の3点です。
1.ナチ時代のドイツ人が犯した犯罪の道義的責任は今のドイツ人にもあるとの認識を示した点。
2.和解の意思を示し、初めてドイツの元首を受け入れてくれたことへの深甚の謝意を表明した点。
3.オラドゥールの人々の苦悩に共感を寄せつつも、戦後生まれのドイツ人が、ナチスとは違う国を作ってきたこと、他の国と協調しながら平和で民主的なヨーロッパを作ろうとしてきたことを強調していた点。

狭隘なナショナリズムがもたらした地獄と、そこから和解にたどりついた独仏。両国の関係・交流から、私たち日本人が参考にすべき点は多いのではないかと思います。

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