《公開講座記録》【「大和学」への招待―郡山の歴史と文化2―】第2回
●2024年6月1日(土) 午後1:30
●テーマ:蛍の伝承―佐保川の蛍と「ジャンジャン火迎え」から―
●講師 齊藤 純 (歴史文化学科 教授)
内容
昭和3(1928)年の『民俗芸術』7月号の記事「大和のジャンジャン火迎へ」によると、6月7日、佐保川の「大仏蛍」が盛んな頃、郡山の町はずれの打合橋で死者供養の「ジャンジャン火迎え」なる踊りを踊るという。記事には怪訝な点もあり、伝承は創作かとも疑われるが、各地・各時代の蛍の民俗を検討すると、蛍を魂に見立てた例は少なくない。それらを紹介し、踊りの伝承の発想させた信仰や観念を探ることにしたい。
まず、佐保川の「大仏蛍」だが、「佐保川の蛍」は「南都八景」の名所一つとして有名だった。「南都八景」とは、東大寺の鐘、春日野の鹿、南円堂の藤、猿沢池の月、佐保川の蛍、雲井坂の雨、轟橋の旅人、三笠山の雪で、室町時代、京都相国寺鹿苑院の僧、蔭涼軒主が記した 『蔭涼軒日録』の 寛正6(1456)年9月26日の記事に出てくる。蛍の名所は各地にあり、平等院付近の宇治川や石山寺付近の瀬田川がよく知られている。こうした蛍の見物は「蛍狩り」、蛍の群舞は「蛍合戦」と表現されていた。
蛍は日本の文献でも古くから記載があり、『日本書紀』巻第二(神代下)に、天津神が治める前の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」いわゆる地上の様子として、蛍火のように妖しく輝く神、蠅のように騒がしい良くない神がいて、草木も皆よく物を言う、と記されている。
『源氏物語』『枕草子』など古代中世の古典文学にも蛍の記載があるが、『後拾遺和歌集』に収められた和泉式部の和歌「物思へば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる たまかとぞ見る」は、蛍が「たま」つまり「霊魂」に見立てられている点で注目される。
寛文12(1671)年の『狂歌咄』を見ると、宇治川の蛍の群舞は「頼政入道が亡魂にて、今も軍(いくさ)するありさま」と記されており、治承4(1180)年、平氏の追討を受け、宇治平等院の戦いに敗れて戦死した源頼政の魂だとする伝承があったことがわかる。同じ伝承は正徳2(1712)年の『和漢三才図会』にも見られる。また、寛政8~10(1796~98)年の『摂津名所図会』が記す伝承では、現在の茨木市の白井河原の蛍の群舞は、戦死した明智光秀一族の鬼火だという。そのほか、大正12(1923)年の『郷土趣味』第四巻第二号の「人が虫になった話」は、浜松市の野口八幡附近の蛍について、武田と徳川の両軍の合戦で討死した兵卒の亡魂が化したものという伝承を紹介している。
一方、国立歴史民俗博物館の「れきはくデータベース」の「俗信」動植物編で「蛍」を検索すると、蛍が出ると「雨」「大水」「豊作」という例がある。これは十分な水がないと蛍が成長しないという、蛍の生態から説明できるが、蛍が家に入ると「病気」「火事」など不幸が起きるという例も少なくない。これらは、蛍が妖しいもの、死者の魂だという伝統的な理解に通じるものだろう。
ここで天理市付近のジャンジャン火の出現地に目を転じてみると、布留川用水の川沿いが多いことに気づく。この布留川用水の一つである三島川は、冬の淡水産の海苔(のり)と、夏の蛍が名物で、天理大学附属天理参考館に「三島/名産/かんのすのり/なつほたろ/大和三島天理教会本部門前/石西商店」と記す看板も展示されている。目撃例のあるジャンジャン火の正体は、すべてでは決してないが、その一つに蛍があったのではないか。また、蛍自体を遺恨のある魂とみなす伝統が、いくつかのジャンジャン火伝承を生んだのではないか。蛍に関する信仰や観念を検討すると、そのように考えられるのである。