『大和名所図会』の冒頭図 西野由紀 2021.02.12 人文学部国文学国語学科教育・研究 # 国文学国語学科 教員エッセイ

「名所図会」の魅力は挿図にあり

江戸時代後期に盛んに出版された地誌のシリーズに、「名所図会(めいしょずえ)」があります。「名所図会」は、詳細な解説と挿図とがそなわった名所案内書で、とくに挿図は、モノクロではあるものの当時の人びとの生活や文化を伝える資料として、浮世絵にも劣らない魅力をもっています。

なぜ平安京の内裏の挿図?

この「名所図会」のうち、天理大学のある奈良県をとりあげているのが、寛政三(一七九一)年刊の『大和名所図会』です。この『大和名所図会』巻一の冒頭の挿図には、年初に内裏で歌笛を演奏する「国栖(くづ)の奏」のようすが描かれています。[図一]挿図の上部の解説にはつぎのように記されています。

『公事根源』曰、
今の国栖の奏とて、歌をうたひ笛を吹ならすは、吉野より年の始に参りたるといふ心也云云
『江家次第』曰、
国栖歌笛承明門外ニ於テ之奏

[図一]

ここに引用される『公事根源(くじこんげん)』は室町時代中期の、『江家次第(ごうけしだい)』は平安時代後期の、それぞれ有職故実書(ゆうそくこじつしょ)で、宮中行事の起源や沿革を記しています。「国栖」は大和国吉野郡にあるため、『公事根源』では「吉野より」「参りたる」としているのです。

図をよくみると、左右に右近の橘と左近の桜が描かれているのがわかります。これは平安京の内裏にある紫宸殿(ししいでん)の前庭であることを示しています。また、桜樹に葉も花もないのは、『公事根源』の「年の始」という季節設定にあわせているからです。『江家次第』には「承明門外(しょうめいもんがい)」とありますので、実際には承明門の外側で演奏したようです。宮中行事であることが読者にもひとめでわかるよう、内裏を象徴する紫宸殿や植栽とともに描いているのは、絵師の演出であるといえます。

ただ、吉野にゆかりのある「国栖の奏」を描いているとはいっても、「大和」の名所を紹介する書物でありながら、平安京の内裏を描いた挿図を巻一の最初に配置することは、不自然であるといわざるを得ません。なぜ、「国栖の奏」の挿図が『大和名所図会』の冒頭をかざることになったのでしょうか。

「豊明節会」と「五節の舞」

この「国栖の奏」について、『大和名所図会』巻六坤の本文ではつぎのように記されています。

豊(とよ)の明(あかり)の五節(せつ)にも此翁参て、粟(あは)の御料にウグヒの魚(うを)を持参(じさん)して、御祝(をんいはひ)に進(たてまつ)る。(略)此翁の参らぬ中(うち)には五節始る事なし。

これをみると、「国栖の奏」は「豊明節会(とよのあかりのせちえ)」で催される「五節(ごせち)の舞(まい)」にはなくてはならない存在であったことがわかります。

この「豊明節会」は、新嘗会(しんじょうえ)(新嘗祭(にいなめさい)とも)あるいは大嘗会(だいじょうえ)(大嘗祭(だいじょうさい)とも)にあわせて催される宴席をさします。そして、「五節の舞」はそこで披露される舞楽です。新嘗会はその年に収穫した穀物を神に供える儀式で、なかでも天皇即位の年におこなわれるのを大嘗会といいます。前者の場合は霜月中あるいは下旬の卯辰の二日、後者の場合は卯辰巳午の四日の、それぞれ最終日に、「豊明節会」が催されます。「五節の舞」の舞姫の数については、前者は四名、後者は五名とされ、大嘗会のみ増員されます。

さらに、『大和名所図会』巻六乾には、「五節の舞」の起源とされる天武天皇の故事を描いた挿図が収載されています。[図二]挿図の上部の解説にはつぎのように記されています。

浄見原(きよみはらの)天皇、吉野の行宮(あんきう)にて琴を弾(だん)し給へば、天人影向し、曲に応じて舞遊びけり。それより振袖山といふ。

[図二]

「浄見原天皇」とは天武天皇のこと。この挿図の解説のほか、本文では、平安時代中期の『本朝月令(ほんちょうがつりょう)』という年中行事書に載る故事として紹介されています。いわく、天武天皇が日暮れに吉野宮(よしののみや)で琴を弾いていると、その興趣(きょうしゅ)に誘われて向こうの峰から雲とともに天人があらわれ、琴の音にあわせて舞踊しつつ、五度、羽衣の袖を振ったという。この天人があらわれた峰を袖振山とよぶようになったという地名起源譚(たん)を、さきの挿図では描いていたのです。

図をみると、日暮れにあわせて灯りをともしながら琴を弾く天武天皇が右、雲のあいまからあらわれた天女ふたりが左に、それぞれ描かれているのがわかります。故事では天人たちは「舞遊」したとされていますが、ふたりのうち左の天女が笙(しょう)を吹き、天武天皇と合奏するかたちになっているのは、絵師の演出なのでしょう。

新嘗会と大嘗会の復興

ところで、新嘗会は寛正年間(一四六〇-六六)に中絶し、江戸時代になって一部が復興、さらに元文五(一七四〇)年に宮中行事として再びおこなわれるようになったといいます。また、大嘗会は文正元(一四六六)年を最後に中断し、貞享四(一六八七)年に東山天皇が即位するにあたって簡素化した形式で復興され、元文三(一七三八)年の桜町天皇即位からは続けておこなわれるようになり現在にいたります。

両儀式にあわせて催されていた「豊明節会」もまた、一八世紀半ばに復興したわけで、これを契機として、巻一の冒頭に「国栖の奏」の挿図が配置されたのだと考えられます。つまり、『大和名所図会』が出版される五〇年ほど前に復興したそれぞれの儀式を支える「国栖の奏」がその象徴として描かれたのでしょう。そして、実際に国栖が所在する地域=吉野郡をとりあげる巻六の本文や挿図の内容を補助とすることによって、冒頭の「国栖の奏」の挿図が解釈できるようになっているのです。

今回とりあげた「五節の舞」にまつわる天武天皇の故事については、江戸時代後期の文学作品にもエピソードとしてとりいれられているのですが、そのことはまたあらためて紹介いたします。(人文学部国文学国語学科 西野由紀教授)

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