【人文学部クロストーク&教員コラム】人文学部教員コラム6 何を見ても何かを思い出す—映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と心理療法 2023.08.08 人文学部宗教学科国文学国語学科歴史文化学科心理学科社会教育学科社会福祉学科 # 人文学部クロストーク&教員コラム

臨床心理専攻教授・松井 華子

映画『EEAAO』と心理療法の共通点

 私は心理学の中でも臨床心理学という学問領域を専門としています。その中心は心の病や心の傷を得た人、生きる上での悩みを抱える人の話を聞き、これからの生き方についてともに考える「心理療法」という営みで、いわゆる「カウンセリング」と一般的に呼ばれるものです。
 ところで、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(以下EEAAO)』(監督:ダニエルズ、2023年3月日本公開)という映画があります。アジア系俳優である主演のミシェル・ヨーや助演のキー・ホイ・クァンがアカデミー賞を受賞したことでも話題となりました。私も見ましたが、これは心理療法に通ずる体験を描いていると思いました。
 『EEAAO』は、最近流行りのマルチバース物で、メインテーマは家族関係の再構成です。ミシェル・ヨー演じるエヴリンは保守的な価値観を持った(持たされた)アジア系移民という設定。娘のジョイは母からすると全く新しい価値観で生きる現代的な若者なので、相容れることがありません。娘に会えばくどくどとお小言をいいたくなるエヴリン。旧態依然とした価値観を体現する父も故郷からやってきて、板挟みの状態です。横を見れば、穏やかではあるが、エヴリンからすると物足りない夫、ウェイモンド。確定申告でダメ出しをくらって家業のコインランドリー経営が危機に…というところから物語が展開します。
 心理療法を求めてやってくる人のことを心理臨床家の妙木浩之は「取り付く島のない人」と呼びました。助かりたくてもその手がかりがどこにもなくて溺れかかっている人、というようなイメージです。上下左右どこを見ても味方のないエヴリンは、まさに「取り付く島のない」状況にあると言えます。

バースジャンプと人生の選択

 この後、『EEAAO』ではどうなるかというと、夫のリードによって、あらゆる“そうだったかもしれない”宇宙に飛び(バースジャンプ)、あらゆる能力を味方につけます。エヴリンがカンフーマスターである宇宙や大女優である宇宙、あんな宇宙やこんな宇宙など、ありとあらゆる宇宙にジャンプし(その、まさに“ありとあらゆる”ぶりは公式トレイラーや映画本編でご確認ください)、全宇宙の支配者たる娘と対決します。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』公式Twitterより
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』公式Twitterより
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』公式Twitterより
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』公式Twitterより

 エヴリンに限らずどの人の人生も、無数の選択肢から何かを選び取って、何かを捨てることによって成り立っています。人生の分岐点において「あちらを選んでいたら違ったのではないか」と悶々とするのは、苦境にある人が陥りやすい思考のパターンでもあります。ですから、エヴリンがバースジャンプをするように、「あのときああしていれば」と空想する場面は心理療法においても多く出現します。では、こういった「ああしていれば」について、我々はどうすればよいのか。それも『EEAAO』の中にヒントがあるように思います。

対立物の結合と個性化

 ありとあらゆる宇宙をジャンプしながら娘と対決するエヴリンですが、苦戦します。その苦境を救ったのは、自分と正反対で、自分の役には立たないと思っていたあるものでした。これがエヴリンにとっての「取り付く島」となったのです。対立するものを取り入れることで世界の調和を取り戻したエヴリンは、自分が経営するコインランドリーに戻ってきます。そして、娘に言葉をかけるのです。
 この結末は、保守的だという批評も呼んだようですが、私の理解では、映画の終盤でのジョイへの言葉は、冒頭でのそれとは質が全く異なる革新的なものだと思われます。冒頭は、父に代表される育ってきたコミュニティの価値観をそのままに引き継ぎ、そこから外れる不安によって、言葉が出てきているように見えます。しかし最後にかけた言葉は、エヴリンが自分には父とも娘とも異なる宇宙がある(逆もまた然り)との確信を持ちながら、他の宇宙と関わることを知ったからこそ言えるようになったものではないかと思うのです。宇宙を巻き込んだ娘との対決がどのように調和されたかを考えると、よくわかります。(詳しく知りたい方は、ぜひ映画本編をご覧ください。)

 バースジャンプは、自分が生きてこなかった可能性を発動させようとする試みです。自分の中に様々な可能性が眠っていると思うことは希望であり、自分の存在を支えるセーフティネットのようなものです。よって、“こうであったら”“こうできるかも”とあれこれ空想し、吟味し、体験して選び直すことが「取り付く島」を生み出す元となります。ただしそれは、あちらこちらに自分が拡散し、絡め取られてしまうような危険性もはらんでいます。つまり、セーフティネットがセーフティなものとして機能するためには、あらゆる可能性から要らないものをあらためて捨て去ることが必要なのです。そうして初めてセーフティネットは、“私”を“背後から”支えてくれる安全なものになるのです。
 そしてここで重要なのは他人との関わりです。他人の人生は、自分には絶対に歩めないものなので、他人と関わり合うということが実は、“そうであったかもしれないもの”と関わりながらも、“そうはなれない”と諦めて手放すきっかけになります。エヴリンで言えば、娘との対決や、調和をもたらした“あるもの”の取り入れなどがそれにあたりますし、心理療法では、カウンセラーの存在と対話がそれに相当します。こうして、無限の可能性の中から“私”という固有の存在を切り出し、セーフティネットを自ら作り出す行為を心理学者・ユングは「個性化」と呼んで、心理療法の一つの目的であるとしました。つまり、『EEAAO』でのエヴリンの体験は、まさに心理療法的であったと言えるのです。

『EEAAO』の世界にバースジャンプした(?)筆者の著書
『EEAAO』の世界にバースジャンプした(?)筆者の著書

 このように、臨床心理学や心理療法というものを映画を通して考えることもできますし、逆に心理学を学べばその知見を活かして映画に表現されているものを読み解くことも可能になります。というわけで、このコラムをここまで読まれたあなたはすでに、「心理学を使って映画を読み解く」ことを知っている宇宙にバースジャンプをしてしまいました。ひょっとしたら、◯ヶ月後には「天理大学で心理学を学んでいる」宇宙にジャンプしているかも!?

もっと知りたい人のために

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』公式ホームページ

  • 河合隼雄・谷川俊太郎『魂にメスはいらない』講談社+α文庫、1993年
  • 妙木浩之『「心の居場所」の見つけ方—面接室で精神療法家がおこなうこと』講談社、2003年
  • 山中康裕・橋本やよい・高月玲子(編)『シネマのなかの臨床心理学』有斐閣、1999年

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