《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─宇陀歴史再発見─】第4回 神話と地域社会 —宇陀鳥見山をめぐる郷土史— 2023.10.21 社会連携生涯学習公開講座記録

【「大和学」への招待 ─宇陀歴史再発見─】第4回

●2023年10月21日(土) 午後1:30
●テーマ: 神話と地域社会 —宇陀鳥見山をめぐる郷土史—
●講師  黒岩 康博(歴史文化学科 准教授)

内容

宇陀市榛原の鳥見山は、神武天皇が橿原宮で即位したのち霊畤(まつりのにわ)を立て、皇祖天神を祀ったという伝承の存在する場所である。その鳥見山中霊畤(とみのやまなかのまつりのにわ)は、記紀の記事を根拠とした神武天皇関係遺蹟=神武聖蹟の調査・保存・顕彰という紀元二千六百年(昭和15年)奉祝記念行事の中でにわかに全国的注目を浴びたが、地元宇陀にはそこに至るまでの前史があり、またその後の歩みも存在した。本講演はその道のりを辿ったものである。

江戸時代、殊に18世紀においては、「大和志」『大和名所図会』といった地誌において、霊畤を立てた地域「小野の榛原」が宇陀郡萩原と結び付けられており、どちらかと言えば鳥見山は式上郡外山(とび)村(現桜井市外山)との関係が取り沙汰されていた。ところが近代に入ると、明治期には井上頼囶・飯田武郷・猪熊夏樹といった国学者が宇陀鳥見山を訪れ、霊畤親祭の地というお墨付きを与えて行く。その結果、明治41年(1908)には内務省より鳥見山霊畤が参考伝説地に認定され、奈良県に保存が指示された。

こうした一部学者や国・県の動きに比して、明治期に地元で結成された霊畤顕彰組織は中絶を繰り返していたが、その旗色が変わる契機となったのが、大正6年(1917)の『奈良県宇陀郡史料』刊行である。郡視学山田梅吉を編纂委員長、伊達市太郎ら郡内小学校校長たちを編纂委員として作られた同書は、菟田の高城や鳥見霊畤ら「殆んど堙滅に帰せん」(緒言)としていた神武聖蹟を「皇室史蹟」として採り上げた。地元宇陀における学術的研究の嚆矢と言えよう。

昭和期には、大正期に始まった研究と明治期に中絶していた顕彰の復活が相俟って、鳥見山は大きな注目を集めることとなる。昭和2年(1927)、高野萬太郎榛原町長と有志により組織された鳥見霊畤顕彰会は、翌年鳥見山中の土壇に「鳥見山中霊畤趾」碑を建て、翌々年には同地に天神社を創建し、鳥見霊畤大祭を挙行する。また顕彰会と同年に伊達市太郎を幹事として発足した菟田郷土資料研究会は、「唯宇陀山中トノミ称セラレ」放擲されて来た「帝国発祥ノ地」宇陀を、蒐集した資料をもとに探究しようと試みた。

実際研究会が小冊子「菟田郷土資料」を刊行出来たのは昭和13年以降のことであったが、同集を編纂した宇陀郡松山町議にして退役陸軍歩兵中尉の山邊誠一は、同7年11月の陸軍特別大演習(奈良県・大阪府)に際して御前講演「神武天皇大倭御経略ニ関スル戦蹟」を行い、宇陀郡における神武聖蹟の権威となって行く。しかし、同13年文部大臣の諮問機関として設置された「神武天皇聖蹟調査委員会」により、鳥見山中霊畤と決定されたのは、先の近世地誌にも登場していた磯城郡城島村・桜井町の外山であった。

宇陀の鳥見山が国から神武聖蹟と認定されることはなかったが、昭和17年に1町3村の合併により成立した大宇陀町が翌年作成した町史の内容構想に、「神武天皇御聖蹟」が確固として存在するように、鳥見山ほかの神武聖蹟は上代史を語る素材として宇陀の郷土史において生き続けた。また、この時内容構想に携わった旧松山町長の山邊が、戦後の同34年(1959)に『大宇陀町史』が刊行された際には教育委員長を、伊達市太郎が調査委員を務めていたように、郷土史を担う人材の連続性も見逃せない。

伊達は『大宇陀町史』と同年に作られた『榛原町史』でも執筆委員の役にあったが、同書の上代史部分を執筆した池田源太は神武聖蹟について、「歴史的事実として見るよりも、一歩退いて伝承的事実として見る」ことや、「説話としての構造の事実がある」と考えることを提唱している。神話とその舞台への注目(戦前)からのポイ捨て(戦後)に巻き込まれないようにするには、こうした視点が必要であった。歴史に対する視点や、史料を扱うために必要な知識・技術を後世に伝えるための「式年遷宮」として、地域史編纂が果たす役割は大きい。

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