《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─宇陀歴史再発見─】第2回 宇陀の万葉歌 2023.10.07 社会連携生涯学習公開講座記録

【「大和学」への招待 ─宇陀歴史再発見─】第2回

●2023年10月7日(土) 午後1:30
●テーマ: 宇陀の万葉歌
●講師  大谷 歩(国文学国語学科 講師)

内容

1.中山正實「阿騎野の朝」と柿本人麻呂の阿騎野の遊猟歌

 宇陀にまつわる万葉歌といえば、柿本人麻呂の通称「阿騎野の遊猟歌」が著名である。そ中の一首をモチーフとして制作されたのが、中山正實画伯の壁画「阿騎野の朝」であることも著名であろう。現在、壁画は宇陀市の中央公民館に所蔵されているが、その原画が天理図書館の閲覧室に飾られている。という天理と宇陀のひそやかな繋がりを紹介し、モチーフとなった万葉歌の解説を足がかりに、宇陀の地を詠んだ数首の万葉歌についてお話した。

2.宇陀の野の歌

 「阿騎野の遊猟歌」は、草壁皇子の子・軽皇子(後の文武天皇)が阿騎野で狩をした時の歌であるが、かつて行われた草壁皇子の狩のことを想起させる表現がたびたび詠まれている。草壁皇子が宇陀で狩を行ったことは、草壁皇子の舎人(従者)が詠んだ皇子の挽歌からも知ることができる。
 けころもを春冬(とき)片(かた)設(ま)けて幸(いでま)しし宇陀の大野は思ほえむかも(巻二・191)
初句「けころも」は、「褻(け)衣」(普段着)の意と、「毛衣」(毛皮の衣)とする説があり、草壁皇子が生前「けころも」を脱いで狩の時を待ち、「宇陀の大野」に出かけた時の思い出が詠まれている。狩の時を待っていたと解釈できる理由は、「春冬」の文字表記にある。中国の文献において、王が行う春の狩は「蒐」、冬の狩は「狩」と称されており、「春冬」の表記には、王が行う狩の意が込められているとみる説を紹介した。この理解は、「宇陀の大野」(阿騎野)が朝廷の狩場であったことを想起すれば、可能となる解釈であろう。それほど、「宇陀の野」は狩のイメージが強い地であった。それは恋歌の世界にも展開する。
   丹比真人の歌一首 名を闕けたり
  宇陀の野の秋萩しのぎ鳴く鹿も妻に恋ふらくわれには益(ま)さじ(巻八・1609)
 王が行う狩といえば薬狩(くすりがり)、すなわち鹿狩りであった。宇陀の野には多くの鹿がいたために狩場となったのであり、鹿の名所であったとも推測される。この歌は、宇陀の野で妻を求めて鳴く鹿も、私が妻を恋しく思う心にはかなわないだろうと、妻に対する強い愛情を詠んでいる。鹿鳴は恋歌によく用いられるモチーフである。宇陀の野の鹿から鹿鳴というモチーフに展開し、恋歌の表現に取り入れられたことが知られる。

3.住坂(墨坂)の歌

   柿本朝臣人麻呂の妻の歌一首
 君が家にわが住坂の家道(いへぢ)をも吾(われ)は忘れじ命死なずは(巻四・504)
「住坂」は、宇陀市の西峠の付近といわれている。古代の交通の要路であったこの地は、『万葉集』では恋歌の中に登場する。作者は柿本人麻呂の妻。人麻呂は飛鳥時代の歌人で閲歴不明の歌人であり、妻も詳細不明である。あなたの家に私が住む、という住坂への家路を、私は命ある限り決して忘れない、という歌である。
 この歌は解釈にさまざまな困難を抱えている。古代は妻問い婚(男が女の家に通うことで成立する婚姻形態)が基本である。但し、夫婦が同居することもあったため、「君が家にわが住坂」は理解可能だが、なぜ「家道」が取り上げられるのか、なぜ「家道」に対して命が尽きるまで忘れることはないという強い表現を用いるのか。研究者を悩ませてきた一首である。
 試みに、私はこの一首は妻の家出の歌であると解釈した。妻問い婚が原則であるため、女は男を待つことが基本となる。よって、女が恋のために男の元へ行くことは非常識な行動であり、狭い村社会では悪い噂を立てられることが予想される。家出の理由はこの歌から読み取りがたいが、常識外れの行動をする強い覚悟が、下句にあらわれているのではないかと考えた。しかし、違和感が拭えないのも事実である。受講者のみなさんと一緒に頭をひねった一首であった。
 また、住坂に関する『日本書紀』の神武紀・崇神紀を確認すると、住坂の地には赤のイメージが強く結びついている。それは宇陀が辰砂の産地であったことに起因するものと思われ、次の歌にもそれがあらわれている。
 倭なる宇陀の真赤土(まはに)のさ丹着かばそこもか人の吾を言なさむ(巻七・1376)
宇陀の地には赤や丹のイメージがあり、そのイメージは巧みに恋歌の世界にも取り入れられていたことをお話した。
 万葉歌には多くの地名が詠まれているが、その地名を通して歌を丁寧に解釈することで、古代の人びとがその土地に抱いていたイメージや、豊かな発想を知ることができる。『万葉集』ならではの歌の味わい方であるといえる。

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