《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─郡山の歴史と文化2─】第1回 江戸時代の郡山 —地誌と文学作品とでたどるイメージ— 2023.05.27 社会連携生涯学習公開講座記録

【「大和学」への招待 ─郡山の歴史と文化2─】第1回

●2023年5月27日(土) 午後1:30
●テーマ:江戸時代の郡山 —地誌と文学作品とでたどるイメージ—
●講師  西野 由紀(国文学国語学科 教授)

内容

前半部では、「名所図会」をてがかりに、江戸時代の郡山のイメージをみていきます。

寛政3(1791)年に出版された『大和名所図会』は、江戸時代後期に流行した「名所図会」の名をもつ地誌群のシリーズの3作目にあたります。本文と挿図とで構成される「名所図会」には、神社仏閣などを描く鳥瞰図だけでなく、祭礼行事を描く歳時図や当世の風俗を描く風俗図が収載されています。さらに『大和名所図会』では和歌に詠まれた風景や説話、伝説、物語などに取材した故事説話図がくわえられ、以後、「名所図会」にはおもに鳥瞰図、歳事図、風俗図、故事説話図の四種の挿図がみられるようになります。

この『大和名所図会』巻三では、「添下郡(そえのしもこほり)平群郡(へぐりこほり)広瀬郡(ひろせこほり)葛下郡(かつらのしもこほり)忍海郡(おしのうみこほり)」にある名所を紹介しています。現在の大和郡山市にある名所の江戸時代のようすは、この巻三で確認できます。14の項目にかんする解説文とともに、「矢田地蔵(やたのぢざう)金剛山寺(こんがうせんじ)」「松尾寺(まつのおでら)」と題するふたつの鳥瞰図と、「筒井(つゝい)」と題する故事説話図とが収載されています。

「矢田地蔵 金剛山寺」、「松尾寺」の鳥瞰図はともに、左下が南、右上が北の設定で描かれています。季節を特定できるような樹木(桜など)や参拝に訪れた旅人のすがたもみえ、各名所の往事をしのぶことができます。当時の読者もまた、これらの鳥瞰図をとおして、みずから名所を訪れているかのような感覚になったと想像されます。

「筒井」の故事説話図は、筒井順慶が茶の湯に愛用したとされる井戸「筒井」と順慶とを描いています。絵の左にみえる円状の井筒と右の屋内で座し煙管を手にしている老人とがそれです。順慶の前に立つ角前髪、振袖に袴を身につけた少年は、左手に菊の花を持っています。『明智軍記』(元禄期成立)の「筒井順慶猶子ノ事」には、「惟任日向ノ守」すなわち明智光秀の次男の十次郎が7歳のときに、40歳を過ぎてなお実子を授からなかった筒井順慶が養子としてむかえたと記されています。つまりこの挿絵の少年が十次郎で、手に持つ菊によって老齢の養父の長寿を願うすがたとして解釈することができます。

このように江戸時代の読者たちは、「名所図会」の挿絵をつうじて郡山の名所やゆかりのある人物のイメージを共有していたのです。

後半部では、江戸時代の文学作品をてがかりに、郡山がどのような土地として描写され、イメージされていたか、考えてみます。

『万の文反古』(元禄9(1696)年刊)では歌枕として知られた「姿の池」が、『五老井発句集』(天保5(1834)年刊)では「郡山」の城と菜の花の取り合わせが、それぞれ大和の風物として登場します。一方、『心中刃は氷の朔日』(宝永6(1709)年初演)、『妹背山婦女庭訓』(明和8(1771)年初演)、『近世説美少年録』(文政12(1829)~天保3(1832)年刊)では吉野とともに大和を代表する地名として登場します。

貞享4(1687)年に出版された井原西鶴の浮世草子『男色大鑑(なんしょくおおかがみ)』巻二ノ三「夢路の月代(さかやき)」には、郡山家中の侍、多村三之丞(たむらさんのじょう)が登場します。三之丞は春日山の南にある岩井川で丸尾勘右衛門と出合い、ふたりは心を通わせ再会の約束をして別れます。その約束を果たさず勘右衛門は亡くなります。勘右衛門の死後、三之丞は勘右衛門のもうひとりの想い人である左内と出会います。勘右衛門の生前の話しを語り合うちにふたりは意気投合し、枕をともにします。三之丞と左内とが眠る夢枕に勘右衛門があらわれ「三之丞の郡山風の髪型は見苦しい」と三之丞の月代を剃って消えます。夢からさめた三之丞の髪型は本当に剃られた状態になっていました。この話しの中で「郡山風」というのは、当時に流行していた「後下り」の髪型が下がりすぎている状態をさしています。三之丞の垢抜けていないようすを描写しているわけですが、流行にとらわれすぎず家中の好みである「郡山風」に忠実で、主君によく仕える律儀な面をあらわしているともいえるでしょう。こうした郡山の表象によって、当時の人びとが共有していたイメージを探ることができるのです。

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