絵はがきから探る【天理大学百年史コラム(7)】 2020.10.14 天理大学百年史

1932年の整備前の一号棟(『錦旗を迎へて』より)

年史編集室には本学の様子を写した戦前の絵はがきが数枚あります。
しかし学内において資料として保存されていた絵はがきは少なく、現在保管しているものは外部から収集したものがほとんどです。
その中で、1枚気になる絵はがきを収集しました。 

絵はがきに書き込まれた文字

絵はがきの中央には天理外国語学校の校舎(現一号棟)、左側に附属天理図書館、右側奧に寄宿舎(現杣之内ふるさと寮)がみえます。おそらく校舎西方にあった小半坊塚古墳の上から撮影されたと考えられます。下部には白字で「天理外国語学校 天理図書館」「天理教教庁発行」の文字が入っています。
撮影年代は明らかではありませんが、図書館が建設されていることと、校舎周辺の整備が不完全であることなどから、1930(昭和5)年から1932(昭和7)年の間に撮影されたことがわかります。
そして、鉛筆で「外語」「図書館」「過日設計図ノ現場」と書き込みがあります。

この書き込みがあることから、この絵はがきは単に記念はがきとして保管されていたのではなく、誰かがこの書き込みをして、相手に送ったものと推測できます。ただし、宛名面は空白のため、封書に同封して送ったのでしょうか。

書き込みのある絵はがき(整備前)
整備後

大規模な整備事業

1932年11月11日に、陸軍特別大演習が奈良県で実施されました。この大演習では、大元帥である天皇が天理駅に到着し、自動車にて東へ進み、天理教教会本部前から南下して語学校にて車から馬に乗り換え、乗鞍山へと向かいました。そして乗鞍山に設置された御野立所から演習を統監しました。
このため、天理教と奈良県、丹波市町のすべてが関わって、通過する道筋の道路工事、校舎の改修、校地内の整備など大規模な工事が同年5月頃からおこなわれました。

陸軍特別大演習時に天皇が通過した道を示した地図(年史編纂室所蔵「おぢば附近要図」)

先の絵はがきを見るとわかるように、当時の外国語学校の校舎周辺はまだ草木が生い茂っている状態でした。
そこでこの際に、校地内の電気工事、道路排水工事、構内整地造園、芝張拡張、天皇が自動車から馬に乗り換える為の東家の建設、門柱の建設、井戸の開鑿などがおこなわれ、校舎においては、外装及び内部の改修、トイレの改修など、大規模な整備工事がおこなわれました。
この整備後に、ほぼ同じアングルで撮影された写真をみると、その違いは一目瞭然です。
実はこの大規模工事によって造成された一号棟周辺の構内区画が、現在もそのまま活かされています。

赤い部分が、1932年に整備された区画が主に残っている部分。校舎周辺の樹木も当時植えたものである。(国土地理院電子国土WEB利用)
南から撮影。右側が改修中の一号棟。足場が組まれている。左側には東家がみえる。奧では門柱が建設中である。

絵はがきには「過日設計図ノ現場」と書いてあることから、校舎・図書館もしくはその周辺の何かの設計図に関連したものであることがわかります。つまり、この絵はがきをやりとりしていたのは、この大規模な整備に関わった人物である可能性も考えられます。
校舎周辺の造園を請け負った小竹仙二郎、土木工事を請け負った小坂井組、井戸の掘削をおこなった森川ボーリング鑿泉株式会社、門柱の設計をした岩井尊人など、他にも大勢の人物や会社が校地の整備に携わっており、絵はがきをやりとりした人物を特定することは困難ですが、この1枚の絵はがきが、学校内外に大きな変化をもたらした当時の大規模工事と関わりのある資料だと考えれば、想像が膨らみます。

同じもう1枚の絵はがき

さて、先の絵はがきにはもうひとつ注目すべき点があります。
書き込みがない同じ絵はがきをみてみましょう。これには1銭5厘の切手が貼り付けてあり、「昭和七年十一月十四日 陸軍特別大演習記念 大阪」の絵柄入り記念スタンプが押印してあります。少し色調の違いはみられますが、同じ絵はがきです。

もう1枚の同じ絵はがき

しかし、よくみると少し違和感があります。校舎の輪郭、前面の窓あたりが絵のように見えます。実は、この絵はがきは先の絵はがきを少し修正しているのです。
先の絵はがきを拡大してよくみると、左手から中央、さらに手前に向かって電線が張られているのがわかります。中央には電柱が立ち、このアングルでは校舎に電柱が重なって写っています。
しかし、修正した絵はがきには電柱や電線がありません。ただし、校舎玄関あたりの電線と、図書館前の電柱と電線はわずかに残ったままですが、これも拡大すれば見える程度で、一見するとわかりません。
つまり電柱と電線を消して輪郭を描き直した絵はがきが造られたということです。

拡大写真。左が1枚目、右が2枚目の絵はがき。左の絵はがきにある電柱が消えているが、玄関前の電線が消えていない。
拡大写真。左が1枚目、右が2枚目の絵はがき。図書館前に写りこんでいる電線は残ったままであるが拡大しないと見えない

理想の景観に近づける

なぜ絵はがきにこのような修正を施す必要があったのか。明確な理由はわかりませんが、理想の姿に近づける為におこなわれた、と考えることができます。
現在、一号棟周辺や、学内の目立った場所では電気ケーブルや電柱をみかけません。しかし、校舎や図書館が建設された頃は、天理教本部辺りから鑵子山を経て、校舎や寄宿舎に至るまで電柱が建ち並び、送電線が架けられていました。
実は図書館の建設計画時に、二代真柱が「地下ケーブルによる送電方式」を強く主張し、それを受けて設計もされましたが、経費の関係でやむなく地上送電になったといいます。
そして、その時実現しなかった構内及び周辺の送電線の埋設が、1932年の整備時におこなわれ、周辺の電柱と電線が姿を消しました。

布留里橋の北から南を向いて撮影。道は狭く、電柱と電線がはっきりみえる。(『錦旗を迎へて』より)
工事後に同じ場所から撮影された写真。道が広がり、門柱が建設され、街灯も設置されているが、電柱と電線はなくなっている。(『錦旗を迎へて』より)

この経緯について、「神苑より鑵子山東方を経て図書館東側にいたる電気電話両新線路の移転問題も解決したが、図書館から語学校及び其構内竝に同寄宿舎への配線の問題が残ってゐる。もしこれを架空線にするとせば造園が完成されても其風致を損ずる事は甚だしいので、六月廿三日、会議を開き、電気電話線の一切を埋設するものとして至急実地踏査する事に議決し、同日午後其実測を完了」(『奉迎記録』)したとあります。
また、当時の『天理時報』第109号では、「電気電話両線を全部地下線に」という見出しで、「道路橋梁の改修並に語学校構内の公園化実現と共に全く附近一帯の風景を一変し近代都市風景ともみるべき美観を呈するに到った」と完成した様子を報道しています。

ちなみに、景観に対する意見は陸軍側からも出ていました。1932年4月10日に陸軍参謀本部庶務課長吉本貞一ほか3名が、私服で天理外国語学校を訪れ、大演習についての打ち合わせをおこなった際、「本館(現一号棟)西側の藁屋、及び物置小屋の如き外観上見苦しい建物を処置願ひ度い」と述べています。陸軍も、この大演習の整備時に、景観を重視していたということがわかります。

絵はがきに写った姿は、はるか遠くまで、天理外国語学校を見たことがない人達にまでその様子を伝えます。日本で最初の私立の外国語学校として誕生し、奈良県で最初の鉄筋コンクリート造りの洋風校舎を建設し、さらに20万冊を収蔵可能とする3階建ての鉄筋コンクリート造りの図書館を設け、本来ならば、電線を取り去り、美しい空間の中に建つ学校を絵はがきにも表したかったはずです。
そのような思いから、修正された絵はがきが造られたのかもしれません。

杣之内第一体育館前からみた現在の一号棟と九号棟。電線は一本もない
現在。四号棟を南からみると、電線と電柱がみえる。四号棟は1965年に建設された。

※掲載の図面などは加工をしています。

参考資料

  • 平木一雄『おやざと いま・むかし 75年の思い出』1997
  • 昭和七年度陸軍特別大演習記念『奉迎記録』天理教奉迎総務部記録係編 1933
  • 陸軍特別大演習記念写真集『錦旗を迎へて』天理教奉迎総務部記録係編 1932
  • 『天理時報』第109号1932年11月11日

(年史編集室 吉村綾子)

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