懐かしの、あの店この店【天理大学百年史コラム(6)】 2020.09.16 天理大学百年史

『ふるさと会報』に掲載された店の広告

学生時代の思い出といえば、キャンパス内で過ごした日々や、クラブ活動、学科会、その他様々なイベントなどがあると思います。

そして学外では、よく利用した店、仲間たちと語り合った居酒屋、時には先生に連れていってもらった店や、ひとりでまったりと過ごした行きつけの店なども思い出に残っているのではないでしょうか。
それぞれの時代の人気のお店、懐かしいお店などを紹介します。

1955年頃の馴染みの店

まずは、1955(昭和30)年頃のお店です。
『ふるさと会報』1号~4号に、大学や学生に馴染みの店の広告が掲載されています。そこには、店名だけでなく、一言書き添えてあるお店がいくつか並びます。
例えば、床屋の西床は、写真入りでメッセージとともに掲載されています。

饅頭屋の中尾昇月堂は、「「饅頭が来たぞー」と云えば、古い寮生さんなら思い出していただける中尾昇月堂です。オヤジは相変らず饅頭の方をやっていますが、ふるさと会員でもある息子の方はさすがにモダンで、スポーツ用品を扱っています」とあり、古くから寮生に馴染みの店だったことがわかります。

その他、岡本自転車店、中川紙文具店、オムラ理容所、成駒寿司、岩井食料品店、酒・うどん・丼のたかまる、和洋中華のあづまや食堂などがあります。

西床の広告(「ふるさと会報」1号より)

喫茶店ブーム

昭和30年代は、高度経済成長期を迎え、全国的に喫茶店が広がった時期でもあります。経済成長と生活の洋風化により、少し気取って出かける「大人の社交場」といった感覚の場所として喫茶店が親しまれました。
そして、年々店舗が増加し、全国的に一般に身近な存在となり、天理にも多くの喫茶店ができました。

1961(昭和36)年の『ふるさと会報』8号では、その様子について「戦前には、学生だけの社会といったものが、何となしにきまっていて、喫茶店でもビリヤードでも、学生服が屯ろしているところがよく見られたものでした。今では、いつとはなしに背広まで着こむようになって、角帽に黒服、昔好みの黒靴なんていう『学生スタイル』は本当に少なく」なったとあります。
やはり当時の天大生にとっても、喫茶店は背広を着て、気取った様子で珈琲を楽しむ場所だったのでしょう。 

年不詳。飲食を楽しむ学生ら(年史編纂室収蔵)

喫茶BONや、つるや食堂では、テレビを設置していたことが『ふるさと会報』の広告からわかります。
まだテレビの普及率が低かった当時は、テレビ目当てにくる客も少なくなかったでしょう。

当時、南寮では寮へのテレビ設置をめぐり、賛成派と反対派が意見を衝突させていました。
賛成派の主張は「テレビを見るために、杣之内の寮から、わざわざ街の喫茶店まで出かけて行って、『五十円』もするコーヒーを飲まなければならないのは、時間的にも金銭的にもロスが多い。これからはテレビの時代である」というものでした。
つまり、テレビ目当てに、テレビのある喫茶店をおとずれていた学生もいたことがわかります。
ところで、この南寮へのテレビ導入可否論は、昭和32年度の卒業生からの寄贈記念品として白黒テレビが贈られることで決着がつきました。

『ふるさと会報』2号、3号の広告より
『ふるさと会報』2号、3号の広告より

1960年代

昭和30年代前半の天理大学祭プログラムに掲載の店をみると、「丸太!!原木!!完全な民芸趣味の純喫茶!!貴方と貴女のBAMBI」、「珈琲の店 笑家」、「純喫茶BON」、「洋酒喫茶ノビア」、「洋酒・喫茶・席貸フジ」などがあり、何軒かの喫茶店があることがわかります。
1966(昭和41)年の「杣之内ふるさと寮新入寮生合宿オリエンテーション参考資料」には、それぞれの喫茶店の特徴が掲載されています。

「喫茶店は、ボン・ツキ・バンビ・フジにみんなゆく。オーソドックスなのは“ボン” “フジ” “ツキ”。バンビはコーヒーの好きな奴がストレートをのみたい時にゆく。
洋酒はシャルム、ノビアへ行く。コーヒーもある。和食なら何処にでもあるが、洋食となると、ハッピーハウスと松阪の二店。二人づれには松阪が歓迎されている。二階は座敷で松阪牛の好き焼が食べられる。」とあります。
この他、同資料にはパチンコ店3軒の紹介、さらにはデートコースとして石上神宮、石上神宮の滝、夜の天理プール、北大路・親里大路のハゼ・イチョウ並木が紹介されています。

お店の案内図(「杣之内ふるさと寮新入寮生合宿オリエンテーション参考資料」より)

ハッピーハウスは、田中酒店の隣にありました。洋食の出前もしており、そういった店は数少なかったので、大学職員の間でもよく利用されました。
また、田中酒店の西隣や数件隣にも喫茶店があり、向かいには写真屋が店を構えていました。この道は、丹波市駅を降りた人がまっすぐに東に向かう道筋で、学生の往来も多く、先に紹介した喫茶フジもこの道沿いにあり、たくさんの学生が利用していたということです。 

ハッピーハウスがあった場所。今は空き地になっている
右手の茶色の建物のあたりに喫茶フジがあった

平成時代

さて、それから20年以上経った1995(平成7)年当時の人気のお店はどこでしょうか。

天理大学教養部発行の『TULIPS』5月号(第3巻第2号・通巻19号)の「天理とっておきの店(呑み処・食べ処)改訂版」の記事をご紹介します。
天理スタミナラーメン・彩華などの有名店をのぞき、学生だけでなく先生方、地元の方にも人気のお店が19軒紹介されています。居酒屋やスナック、中華料理や寿司店など、ジャンルは様々で値段やおすすめ料理、店休日なども記されています。

学生がよく利用しているのは、大衆食堂の大和軒、居酒屋呑太郎、居酒屋ぶんぶくで、天大関係者が利用するのは、居酒屋おはつ、中華料理長寿飯店、寿司武、越前寿司などです。中でも、大和軒とおはつは、昭和30年代の大学祭プログラムにも広告が掲載されており、古くから学生や大学関係者に親しまれていることがわかります。
また、洋食店松阪はロシア学科御用達で、中華料理スエヒロは国際文化学部教員諸兄姉御用達とあり、学科や学部でおきまりの店があったこともわかります。洋食店松阪は、現在はありませんが、昭和、平成と20年以上の時代を超えて長く天大生に愛された店のひとつでした。

居酒屋呑太郎は「駅裏すぐ、安いとあって学生諸君の利用度が高い。しかし教授会が長引いて、腹もすいた、会議の興奮さめやらず今少ししゃべくりたいし、呑みたいし、しかし帰りの電車も気になる、という教員の一群もみうけられます。」とあり、学生や先生方が頻繁に利用している店のひとつだとわかります。

現在の大和軒とおはつ
1997年3月スエヒロにて、考古学・民俗学専攻卒業記念祝宴(考古学・民俗学研究コース共同研究室提供)

2000年代

さらに、平成中期の2001(平成13)年、2008(平成20)年に発行された、アメリカンフットボール部新入生募集案内の「おススメ食べどころ紹介」をみると、先の大和軒もありますが、ほとんどが別のお店に変わっています。

居酒屋では、一休・時代屋・安兵衛など、食事ではサカエ食堂・お好み焼き屋DON・とんよしなどがあります。その他、BigBoyや八剣伝、大阪王将、得々うどんなど、チェーン店も多く挙げられています。

天理のおススメ食べどころマップ(「American Football CLUB2001年新入生募集」)

教員御用達店も惜しまれつつ閉店

本学のすぐ近くには一と休(ひとやすみ)食堂がありました。和楽橋を渡ってすぐという立地もあってか、教員がよく昼食に利用していました。
1955(昭和30年)頃から60年余りにわたって営業されていましたが、2017(平成29)年に閉店しました。 

このように時代を追ってみると、天大生の流行や、天理市内の移り変わりも知ることができます。また、店の場所を比較すると、時代ごとに行動範囲が広くなっているのがわかります。
これは、通学に自動車やバイクを利用する学生が増加していったこと、キャンパスの拡充、下宿生の増加にともなった下宿先の場所の立地など様々な背景も考えられます。
学外での学生の過ごし方というものは、個々の記憶には残っていますが、わざわざ記録として残すことは少なく、時代ごとの実態を知るのは困難です。
当時の学生にはこの店が人気だった、これは天大生の歴史として残しておいてほしい、などの情報がありましたら、是非ご連絡ください。また、紹介したお店の店頭や店内で撮影した記念の写真などがありましたら、そちらも思い出と合わせてご提供いただければ幸いです。

※掲載の写真は加工をしています。

参考資料

・高井尚之『カフェと日本人』2014
・赤土亮二『喫茶店と日本人』2019
・『天理学寮杣之内ふるさと寮五十年誌』杣之内ふるさと寮五十年誌編集委員会 1976
・創立30周年記念冊子『天理大学と同短期大学』1955(年史編集室収蔵)
・「ふるさと会報」1号~4号
・「TULIPS」5月号 第3巻第2号・通巻19号 天理大学教養部発行
・「丹波市町地図」1940年~1944年頃(年史編集室収蔵)
・「杣之内ふるさと寮新入生合宿オリエンテーション参考資料」(年史編集室収蔵)
・「American Football CLUB2001年新入生募集」(伊藤義之氏所蔵)


(年史編纂室 吉村綾子)

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