収蔵資料からみるラグビー部の歴史【天理大学百年史コラム(10)】 2021.04.08 天理大学百年史

天理大学広報誌「はばたき」号外

2021年1月11日、大学ラグビーの歴史に新しい1ページが刻まれました。
本学ラグビー部が、第57回全国大学ラグビー選手権において、初めて大学日本一に輝いたのです。
2020年は新型コロナウィルスの影響で、世界中が新型コロナウィルスと闘う困難な1年でした。そして、同年8月には、コロナウィルスの脅威は本学ラグビー部にも降りかかり、集団感染による1ヶ月の活動停止という苦しい夏を過ごしました。
しかし、様々な困難を乗り越えて、創部96年目にして見事に大学日本一を勝ち取りました。

ラグビー部は、実に本学の創設と同時に誕生し、同じ年月を歩んできました。
本学ラグビー部のみならず、天理高校(旧制天理中学校)なども含む天理ラグビーの50年間の歴史は、『天理ラグビー 50年の歩み』に綴られています。
ここには、創設当初からの戦績や試合運びなどを中心に多くの記録が記されています。
今回は、年史編集室に保管されている本学ラグビー部草創期の様子がわかる資料をいくつかご紹介します。これらの資料は戦績などの記録はほとんどなく、事務的な書類が中心になりますが、また別の視点でラグビー部の歴史をたどることができます。

天理外国語学校ラグビー部の誕生

天理外国語学校の創立から間もない、1925(大正14)年6月12日、校友会発会式がおこなわれ、既に創立が認可されていた剣道部、柔道部、文芸部、講演部、庭球部、弓道部に加え野球、陸上競技、ラグビーの3種のうち、どの部を認可するかが学生たちによって議論されました。
しかし、この議論は「相当揉めた」ようです。「当時漸く一般化しつつ隆盛に向って来たラグビーに対する憧憬は、将来最も伸展性を有するものとして、ラグビー熱を煽動」したようですが、野球ファンも黙ってはおらず、「既に経験のある者の多い野球の方がその成功も早いし、又それによって外語の名声をより早く全国に轟かすことが出来るのだ」(『開校十年誌』)という意見でした。

ラグビー部創立当初の部員のうちの7名。(個人蔵。年史編集事業における収集資料)

開校間もない天理外国語学校は、まだその存在すらほとんど知られていません。天理外国語学校の名を全国に広げるには、クラブの成績が大きな一助になると考えたのでしょう。しかし結局、議論はまとまらず投票がおこなわれ、6対5という僅差でラグビー部が誕生しました。

ちなみに、天理教二代真柱中山正善が旧制大阪高等学校在学時代にラグビーと出会い、その縁で旧制天理中学校にラグビーがもたらされたのが天理ラグビーの始まりですが、旧制大阪高等学校にラグビー部が創設されたのは1922(大正11)年で、翌年には大阪外国語学校にも創設されました。この頃、ラグビーをしていたのは「関西では三高と同志社、関東では慶応と早大だけ、まだ神戸と横浜の外人が幅をきかせていた時代で、いわば時代の先端のスポーツだった」(『天理ラグビー』)といいます。
こうした状況の中で、ほどなくして、天理外国語学校にラグビー部が創設されたのです。

1941年の構内図。中央の「本館」が現一号棟で、西南方向にある「運動場」をラグビー場として使用していた。現在、この場所には天理高校の駐車場及び西山校舎が建っている。(「天理外国語学校附近見取図」より。年史編集室収蔵)
1933年撮影。運動場を南側から撮影。ゴールポストが設置されているのがわかる。左手奧に門柱、右手には現一号棟と武道場がみえる。(集成部史料掛所蔵)

初の対外試合

ラグビー部誕生翌月の7月20日に発行された『道乃友』442号には、「開校の始より設けられたるラグビーは近来メキメキと上達したので近い内に対抗試合を行ふと力んで居る」と、部員たちの奮起を報じています。
しかし、こうした部員らの思いとは裏腹に「校友会も創設間際で充分な予算もなかったので、大阪や京都へ出かけてゆくと云ふことは全然望まれなかった。」「他校と練習マッチでさへも行ふことは、夢にも出来なかった」(『開校十年誌』)状態でした。

そして、創部から8ヶ月後に、初めての対外試合の機会がやってきます。1926(大正15)年2月11日の大阪外国語学校との対抗試合でした。

二月十一日 木曜日 曇後晴
八時半より中学校講堂に於て紀元節祝賀式挙行 式後神殿参拝
午後三時より中学校運動場に於て大坂外語対本校のラグビー戦あり

このように、年史編集室収蔵の天理外国語学校の「日誌」にラグビー戦が開催されたことを示す記述が登場します。日誌には、これ以上の情報は記されていませんが、これが天理外国語学校の日誌に初めて「ラグビー」という文字が記された時です。
また、この試合に関する届けとして、学校から天理教教学部に宛てて提出した「蹴球部対抗試合之件届」が残っており、「明十一日午後、天中グラウンドニ於テ大阪外語対本校ノ蹴球試合ヲ可致候」とあります。
さて試合結果は、天理0-15大阪外語で、残念ながら大阪外語の勝利に終わりました。しかし、相手は「新チームと聞いて50点ぐらい開けるつもりだったが、案外頑強なのには驚いた」と話していたということから、当時の部員らが練習成果を出し切り、負けたとはいえ今後につながる自信を身につけた試合になったようです。

大正14年度の天理外国語学校「日誌」(年史編集室収蔵)
「蹴球部対抗試合之件御届」(年史編集室収蔵)

学校側からみたラグビー部

大正時代末期、「スポーツ」という用語が国内に次第に定着し、大学の一部の学生たちのみが行っていたスポーツが、庶民の間にも広まっていきました。
一方、行政の動きとしては、1924(大正13)年に文部省直轄の体育研究所を設けて、体育に関する研究および指導をおこなうようになります。また、1928(昭和3)年5月4日の文部省分課規定の改正により、学校衛生課は体育課に改称され、翌年11月27日に、文部省内に体育運動審議会を設置します。この審議会は文部大臣の諮問機関として、体育運動の指導方針・方策の樹立に大きな役割を果たしたとされます。
こうした動きがある中で、文部大臣官房体育課長文部省学校衛生官が1928(昭和3)年10月3日に発信した「運動精神ノ涵養ニ関スル件」と題した書類が残っています。ここにはいくつか質問事項が書かれており、それに対する学校が作成した回答も残っています。

回答は各クラブごとに分かれており、その中で「運動精神ノ涵養上特ニ留意スル点」という質問に対するラグビー部の部分は、

「趣味ヲ感ジシムルヲ必要トス、一般ニ部員ヲ分チテ趣味ヨリ入リタルモノト、必要ヲ感ジテ入リタルモノトノ二種トナス、前者ハ往々ニシテ耽溺シ易ク、従ヒテ学業ヲ怠リ易ク、後者ハ兎角十分ナル趣味ヲ養ヒ難ク途中ニシテ放擲スルモノ多キガ如シ、故ニ両者ノ欠陥ヲ矯正調和スルコトニ留意ス」 

とあり、趣味で始めた部員は夢中になりすぎて学業を怠りやすく、逆に運動として必要であると思いラグビーを始めた部員にとっては、途中で投げ出してしまう者が多く、両者の欠陥を調和することに留意する必要があるとしています。
また「運動精神涵養上困難トスル点並弊害アリト認ムル点」については

「蹴球ハ過激ニシテ加フルニ相当長時間ヲ要スルガ故ニヤヤモスレバ過労ニ失シ学業ノ進歩ニ支障ヲ来シ易ク又他ノ運動ニ比シテ粗暴ニ流レ易シ、其他負傷ノ多キコトハ免レ難キ弊害ナリト思考ス」 

とあり、その激しさによる過労が原因で学業に支障をきたしやすく、他の運動に比べて荒々しいため、怪我をしやすいことは避けがたい弊害であるとしています。
他の運動とは、柔道、剣道、弓道、庭球を指しますが、柔道、剣道、弓道に関しては正課でもあったため、比較的肯定的な回答が多くみられます。これら武道に対し、ラグビーは「団体運動ニシテ、強烈ナル走躯ト機敏ナル動作ヲ必要トスル」とあり、激しいスポーツであるということを強調している回答が多く見受けられます。

1929(昭和4)年3月卒業の北出政雄氏の手記「ラグビー生活の思ひ出」(『開校十年誌』三)によると、ラグビー部は「余り教授連には好遇されなかった」が、1928年度末におこなわれた関大との試合ののち、「学校内でラグビーを認められ初めた」とあることから、当初は学校側も海外発祥のこの激しいスポーツを理解し受け入れるのに、学生たちとは温度差があったのかもしれません。

「運動精神ノ涵養ニ関スル件」(年史編集室収蔵)
「運動精神ノ涵養ニ関スル件」に対する学校側の回答(年史編集室収蔵)

幻のラグビー用具

部の創設当初は天理中学校のグラウンドが試合会場でしたが、1926年に校舎(現1号棟)が落成し、グラウンドが校舎の南西に新設され、天理外語のグラウンドで試合ができるようになりました。
1927(昭和2)年11月13日の日誌には、「午後二時半より本校運動場に於て本校対大阪外語のラグビー戦を行ふ」とあり、少しずつですが練習環境も整ってきたことがわかります。
さらに1928(昭和3)年9月のことです。
岩井尊人から天理外語校長中山為信へ宛てて1通の手紙が届きます。

昭和三年九月二十日
天理外国語学校々長中山為信殿
岩井尊人〈サイン〉
拝啓
今般(別幸便、染井中山邸経由)ラクビー蹴球用具英国ヨリ一組相求候、幸御校仝運動部用トシテ寄贈仕ルノ光栄ヲ担ヒ申候
右ハ好箇青年諸君カ右sport-spiritニヨリteam workノ生命ヲ体得セラルヘキヲ冀ヒ、ソノタメノ貧者ノ一灯ニ有之候
此度 管長御成婚ノ盛儀ニ方ル之ヲ奉祝シ紀念スルノ小生ノ微衷ニ候、青年管長ノ下ニ雄飛セラルヘキ諸君ノ心身精錬ノ一助トモ成シ下サラハ幸甚ノ至ニ候
右可然当該運動部員ニ御伝達被下度候 敬具

岩井尊人からの手紙(年史編集室収蔵)

岩井尊人は、丹波市町に生まれ、丹波市小学校では天理外国語学校の校長山澤為信と同級生で、子供の頃には天理教中山家に遊びに行っていたというほど、幼い時から天理教が身近にありました。1917(大正6)年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業したのち、三井物産に入り、1919(大正8)年からロンドン支店に詰め1926(大正15)年に帰国しています。ロンドン滞在時には、ケンブリッジ大学において講義をおこない、油絵や彫刻といった芸術にも才を成し、海外諸国の文官武官らとも親交があったといいます。
また、11年間にわたる『道乃友』(天理教発行月刊誌)への寄稿や、天理教の著書などもあり天理教内でも広く知られた人物でした。「お道に学問はいらぬ」という天理教内の声が盛んだったときに、天理外国語学校の急設を極論した、というエピソードがあることからも、天理外国語学校との関わりも深い人物でした。

手紙には、ラグビー蹴球用具を一組イギリスから買い求め、幸いにも、天理外国語学校の運動部用として、これを寄贈できる光栄を担うことができました、とあります。
しかし当時の刊行物など、どれを見ても岩井氏からのラグビー用具寄贈の話は記されていません。
用具に関してわかっているのは、学校の開校と同時に天理中学校のお古のラグビーボールを1個与えられたこと、そして部が設立されたときに、創設者である天理教二代真柱中山正善が、オールブラックのユニフォーム、パンツ、ストッキング15組とシルコックのラグビーボール1ダースを学校に寄贈されたことです。
残念ながら岩井氏からの用具寄贈についての資料が他に見当たらず、実際にラグビー部に用具が届けられ活用されたかどうかを明確に知ることはできません。
しかし、岩井氏がこのように天理外国語学校ラグビー部の発展を願い、用具を寄贈しようとしたことは事実です。このように、学校内外の人の支えもあり、少しずつラグビー部が成長していったといえるでしょう。

1935年撮影。ラグビー部練習風景(集成部史料掛所蔵)
1935年撮影。ラグビー部練習風景(集成部史料掛所蔵)

戦時下での困難

それから13年後の1941(昭和16)年の資料をみると、その時代背景と苦労が伝わってきます。
1941年は太平洋戦争が始まり、米は配給通帳制に、木炭や酒は切符制となりました。それ以前に、綿製品も配給制になるなど、次第に日常生活に必要な物資の統制が厳しくなってきました。
そんな中では、スポーツをするための用具も簡単には手に入らなくなっていきます。
同年5月26日付で、文部省体育局長より学校宛に、体育運動用具の配給状況を調査するための文書が届きます。これに対し、6月14日に本校の状況を調査した回答が出されています。その内容をみると、いかに用具が不足しているかがわかります。
調査項目は3点あり、まず一つ目が「入手困難ナル品目及其ノ程度」についてです。
ラグビー班(同年度より「部」は「班」の名称に変更されます)の場合

イ、靴ハ主ニ豚皮製ヲ使用セル処、品質粗悪ノ為持久ニ堪エズ
ロ、「ユニフオム」ハ入手殆ンド不可能
ハ、「ボール」ハ入手極メテ困難

 続いて「供給減少ニ依ル支障ノ程度」については
イ、靴ハ従来ノ破損セル物ヲ修理シ間ニ合セ居レリ
ロ、練習着ハ入手困難ノ為普通ノ「シャツ」ヲ使用シ居レリ

そして「配給ノ方法」として、「学校ヨリ配給ヲ受クルヲ便利トス」とした上で
イ、出来得レバ牛皮製靴ヲ毎年二十人分ヅツ入手シタシ
ロ、「ユニホーム」トシテ純毛又ハ「スフ」入ヲ不取敢十人分入手シタシ
ハ、練習着用トシテ純綿又ハ「スフ」入ヲ毎年四十人分入手シタシ
という要望が書かれています。

本来ならば、牛革の靴を使用したいが代わりに豚革製を使用し、品質は粗悪なため持久に堪えないとあります。そのため、靴は従来の物を修理して使用して間に合わせているともあります。
ユニフォームは入手することがほとんど不可能で、練習着も入手困難につき、普通のシャツで代用しているとあります。また、ボールも入手が極めて困難であるとあります。

これらの状態は、ラグビー班に限ったことではありません。
例えば庭球班は、靴を入手することが困難なため、靴をはかずにほとんど裸足で練習している、ボールも入手できないため、破損したボールを修理して使用している。柔道班については、破れた柔道着を修理して漸く間に合わせている、有段者ノ帯(黒帯)は皆無といった状態が記されています。
スポーツには、練習着や靴は元より、使用する用具は必要不可欠なものです。こうした必要な物資が不足していた時代、その時々の困難を乗り越えて、それぞれの時代の選手たちが練習を継続してきました。

このように、年史編集室に収蔵された資料には事務書類が多くみられますが、戦績とはまた違った角度でラグビー部の歴史をとらえることができます。

「阪和の常勝軍・其の名は天外ラグビー部」とあり。(『心光』9号(1938年3月20日発行)より)
一号棟屋上からみたグラウンド。中央にゴールポストがみえる。奧に西山古墳と大和平野が広がっている。(『心光』13号(1942年1月25日発行)より)
1935年撮影。ラグビー部練習風景。中央の大きな建物は現伝道実習棟。右手は武道場。(集成部史料掛所蔵)
1935年撮影。ラグビー部練習風景(集成部史料掛所蔵)


参考資料

・「天理大学年史編集室所蔵「天理外国語学校日誌」(大正一四・一五年度)」山本和行・吉村綾子 『天理大学学報』第72巻第2号 2021
・『天理ラグビー 50年の歩み』天理ラグビーOBクラブ 1975
・『大高 それ青春の三春秋』大高同窓会編 1967
・『大阪外国語大学70年史』大阪外国語大学70年史編集委員会編 1992
・『おやさといま・むかし』平木一雄 1997
・『天理大学創設者 中山正善天理教二代真柱とスポーツ』森井博之 2007
・『学制百年史』文部省 1972
・『天理大学五十年誌』天理大学五十年誌編纂委員会編 1975
・『開校十年誌』山澤為次編 1935
・「道乃友」442号 天理教道友社 1925年7月20日 


(年史編纂室 吉村綾子)

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