《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─宇陀歴史再発見─】第1回 享保の改革と宇陀の民衆 —奥宇陀の庄屋記録を手がかりに— 2023.09.30 社会連携生涯学習公開講座記録

【「大和学」への招待 ─宇陀歴史再発見─】第1回

●2023年9月30日(土) 午後1:30
●テーマ: 享保の改革と宇陀の民衆 —奥宇陀の庄屋記録を手がかりに—
●講師  谷山 正道(歴史文化学科 元教授)

内容

 江戸幕府による三大改革の一つに数えられている享保の改革は、当時いよいよ深刻さを増していた財政問題(財政難)を解決することを大きな課題として、8代将軍徳川吉宗の治世に実施された。本講義では、享保改革期に実施された諸政策のうち、農政(主に年貢をめぐる政策)に光をあて、大和の幕領(主に宇陀の幕領)のケースを対象に、宇陀郡長野村の井上次郎兵衛が 書き残した記録や宇陀市域に残っている文書などを活用しながら、「享保の改革と宇陀の民衆」をテーマとして、以下のような内容構成のもとに話を進めた。

【1】享保改革のスタート・・・○徳川吉宗の将軍就任 ○享保改革期の時期区分 ○改革政権が直面していた大きな課題(改革前夜の社会情勢、幕府の財政難、年貢額の減少、幕領支配・年貢徴収をめぐる問題点) ○年貢収奪機構の整備

【2】享保改革前期の財政収入拡大政策をめぐって・・・○上米令 ○新田開発政策の推進(宇陀を含む大和のケース)○増米定免法の実施(大和幕領での実施状況、享保飢饉の様子) ○石代銀納値段のせり上げ(享保7年8月の幕府法令、享保19年の仕法改正)

【3】享保改革後期における増徴政策の展開と百姓たちの抵抗・・・○年貢収奪体制の再強化(勝手掛老中松平乗邑、勘定奉行神尾春央) ○大和の幕領支配と百姓たちの動向(大名預所支配への移行、古検村々に対する毛付高拡大政策、大名預所支配下での年貢増徴、高取藩預所村々の動向) ○神尾春央による西国幕領巡見(巡見のメンバー、巡見のコースと日程、巡見先での演説と増徴指令の内容、当年の大和幕領での年貢増加状況、各地での巡見の様子、神尾の巡見に関する落首、早々にあがるようになった増徴反対の声) ○延享2年の動向(大和の百姓たちの動き、勝手掛老中松平乗邑の罷免をめぐって)

【4】年貢増徴路線の踏襲と行き詰まり・・・○将軍代替わり後の幕府の農政方針(将軍代   替わりの報に接した出羽国村山郡谷地郷の百姓たちの感慨、武蔵幕領での「浮説」) ○勘定奉行神尾春央による増徴指令(神尾単独での指令) ○収奪基盤をなす百姓たちの疲弊(宇陀郡塩井村のケース、吉野郡田原村のケース) ○増徴反対(年貢減免)運動の展開(大和幕領での増徴反対運動の展開、寛延2年の芝村藩預所宇陀郡雨師村など14か村の運動) ○年貢増徴の行き詰まり(大和幕領のケース)

【1】では、享保改革前夜(17世紀後半)の社会情勢について話したうえで、①享保改革政権が直面していた大きな課題は、深刻化してきていた財政難を解消し、幕府の支配体制の立て直しをはかることにあったこと、②幕府の財政難の大きな要因は、財政収入の中心であった幕領からの年貢収入の減少にあり、宇陀を含む大和の幕領の場合にも年貢額の減少が確認されること、③その大きな要因は、代官の不出精や検見の過程での「不正」にあり、幕領支配の司令塔にあたる勘定奉行所でも組織上の問題を抱えていたこと、などを指摘し、これに対処するために、幕府は享保改革期に機構改革を実施し、将軍吉宗のもと、勝手掛老中—勘定所(勝手方)—代官所という形で、幕領支配(年貢収奪)機構を整備するようになったと述べた。

【2】では、改革前期=享保7年(1722)からの財政収入拡大政策を対象とし、①幕府
は享保7年(1722)に上米令を発して、諸大名から領地高1万石について100石という割合で上米を行わせ、財政の急場をしのぐ一方、新田開発政策の推進と増米定免法の採用、石代銀納値段のせり上げによって、幕領からの年貢増収をはかろうとしたこと、②新田開発政策に関しては、秣場の開発や湖沼の干拓などによって一定の成果があがったが、宇陀を含む大和では開発はわずかに止まったこと、③増米定免法は、従来採用していた検見法の問題点の解消と年貢の増徴をねらいとして、享保7年から順次実施され、10年代前半までは一定の成果をあげたが、その後、百姓たちの運動や享保の大飢饉の影響によって年貢高はふたたび低落するようになり、元文2年(1737)には「定免之詮無之」といわれる状況に陥った(宇陀を含む大和幕領では、たいした成果があがらず、年貢高が低落した状況が続いていた)こと、などを指摘した。

【3】では、元文2年以降の改革後期を対象として、以下の点を指摘した。
 ①幕府は元文2年に年貢収奪体制の再強化をはかり、これ以降、勝手掛老中松平乗邑と「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という放言で有名な勘定奉行神尾春央のコンビを中心に、年貢増徴政策が推進されていくことになった。

 ②大和では、元文2年から幕領が戒重(のち芝村)・高取・津の3藩につぎつぎに預けられ、大名預所支配のもとで年貢増徴が推進されていった(幕領を預かる藩には徴収した年貢額の3パーセントにあたる「口米」が経費として支給され、年貢を多く取れば取るほどそれにスライドして藩の取分が増えるという仕組みになっていた)。

 ③とりわけ厳しい増徴が行なわれた高取藩預所(宇陀郡の才ヶ辻村と馬取柿村でも、当預所に編入された年に、代官所の支配下にあった前3か年の平均値と比べて、年貢高がそれぞれ1・6倍、1・5倍に跳ね上がっていることが確認される)では、宇陀郡を含む預所の村々の百姓たちが、延享元年(1744)に惣代を立てて幕府勘定奉行所へ出訴に及んでおり、その結果か、7月に入って当藩の預地が召し上げられ、芝村・津の両藩に配分されるに至っている(但し、年貢増徴路線はなお継続されていった)。

 ④延享元年には、勘定奉行の神尾自らが西国幕領に赴き、有毛検見法や田方木綿勝手作仕法などを採用することによって、農業生産力が高く綿作を中心とした商業的農業が著しい進展を見せていた地域からの年貢増徴をはかっている(この時、神尾は大和幕領の巡見も実施しており、その途上、8月29日に吉野郡田原村で休憩し、9月7日には桜井で演説している)。大和の場合には、それ以前から大名預所支配のもとで、年貢額の大幅な引き上げがはかられていたので、当年の年貢はさらに2割程度アップするくらいであったが、摂河泉や備中などでは前年に比べて年貢が倍増する(ひどいところでは3倍近くになる)村も存在した。その結果、当年の幕府の惣年貢収納高は、180万石余と、江戸時代を通じての最高額を記録するに至っている。

 ⑤神尾の指令にもとづく年貢増徴に抗して、大和を含む各地の幕領の百姓たちは反対運動を展開し、延享2年4月には、大坂周辺幕領の百姓2万人余が京都に赴き、これでは「惣公無民」であるとして、朝廷へ年貢減免の斡旋を願い出るに至っている(これは、前代未聞の出来事であった)

 ⑥幕府では、当年の9月25日に将軍吉宗が隠退した後、10月9日に勝手掛老中の松平乗邑が罷免・処罰されるという大きな事件が起きており、その理由としては、将軍の継嗣問題に加えて、当年4月の大坂周辺幕領の百姓たちによる堂上訴願との関連が想定される。『倭紂書』などでは、「神尾春央が乗邑の指図によって五畿内で『検地』を実施し、これにより困窮した百姓たちが訴状を認めて『禁裏の御築地の内』へ直訴した話が桜町天皇の耳に伝わり、五畿内の民の困窮を救えないのは不徳故と、天皇の譲位問題にまで発展し、その天皇の激昂ぶりが幕府に伝わったことにより、『京都の聞のため』乗邑の処分が行なわれた」といった指摘がなされており、宇陀郡長野村の井上次郎兵衛の記録のなかにも、(「世上」の噂を書き留めたものだが)当年4月の大坂周辺幕領の百姓たちによる堂上訴願(→これをうけた朝廷から幕府への申し入れ)と、松平乗邑の罷免などとの関連をはっきりと指摘した注目すべき記事が見られる。
続いて、「年貢増徴路線の踏襲と行き詰まり」と題した【4】では、以下の点を指摘した。

 ①幕府は、将軍家重の就任から程なく、延享2年11月に法令を発して年貢増徴路線を踏襲することを表明した(勝手掛老中であった松平乗邑は「京都の聞」も配慮して罷免したが、増徴路線そのものには変更を加えないというのが幕府の立場であった)。併せて、将軍吉宗の隠退の報に接した出羽国村山郡谷地郷の百姓が書き残した、「此末御慈悲も可被成候由、末頼母敷皆々悦御事に御座候」という「大念仏講帳」の記事も紹介した。

 ②勘定奉行の神尾春央は、松平乗邑罷免時に従前の勤方を叱責され、翌年の9月にはそれまで有していた勝手方に関する絶大な権限を縮小されたが、その後、宝暦3年(1753)に亡くなる直前まで勘定奉行の職にあり、代官らに年貢増徴を指令し続けた(寛延元年〔1748〕8月と宝暦元年7月には、延享3年9月の幕閣からの指示内容に反して、彼一人の名において各代官に指令を行なっている)。

 ③そうした指令にもかかわらず、神尾が死去する頃には年貢増徴が行き詰まるようになっていた。その要因としては、高水準の年貢が賦課され続けたことにより百姓たちの疲弊が進むようになるとともに、各地の幕領の百姓たちによる増徴反対運動が高揚するようになったことがあげられる。大和の幕領でも、将軍の代替わり後も大名(芝村藩と津藩)の預所支配のもと、高水準の年貢が賦課され続け、これに伴って、百姓たちが困窮に陥り、潰百姓が増加して、戸数や人口が減少するようになるとともに、宝暦期にかけて増徴反対(年貢減免)運動が高揚するようになり、年貢増徴が行き詰まるようになっていったことが確認される(村方困窮の様相については、宇陀郡塩井村と吉野郡田原村のケース、増徴反対(年貢減免)運動に関しては、寛延2年(1749)の芝村藩預所宇陀郡雨師村など14か村のケースを取り上げて紹介した)。

 「おわりに —田沼時代へ—」では、「幕府は、長らく年貢増徴政策を展開してきたが、その推進者であった神尾春央が亡くなった頃には、色々なレベルの役人のなかに、年貢増徴路線に対する反省や反発が生じるようになり、宝暦の中期になると、幕閣の中にも、年貢はそれなりの水準を保ちつつ、年貢以外の収入の道を模索すべきではないかと考える人々が出現するようになった」ことを指摘したうえで、「このあと幕政の表舞台に登場し、幕政を主導するようになった田沼意次は、株仲間政策に代表されるように、農業以外の部門、商工業の進展に目をつけ、そこから生み出される富を、幕府財政の中に組み入れようとしたことでよく知られるが、そうした政策の展開は、彼の政治的力量によるものであったことは確かであるが、年貢増徴政策が行き詰まり、その弊害も顕在化するようになってきたなかで、新たな収入源をえるための方策を模索せざるを得なくなっていたことによるものであり、時代の産物でもあった」と述べて、話を終えた。

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