《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─郡山の歴史と文化2─】第2回 山本コレクションから見た近畿日本鉄道のあゆみ —橿原線全通一世紀— 2023.06.10 社会連携生涯学習公開講座記録関連施設附属天理参考館

【「大和学」への招待 ─郡山の歴史と文化2─】第2回

●2023年6月10日(土) 午後1:30
●テーマ:山本コレクションから見た近畿日本鉄道のあゆみ —橿原線全通一世紀—
●講師  乾 誠二(天理大学附属天理参考館 学芸員)

内容

日清・日露戦争を経て明治39年に成立した鉄道国有法により、主要17私鉄が買収されて国鉄の路線網がほぼ完成した。しかし地域によっては新規路線敷設が必要であり、民間資本の活用という観点から軽便鉄道法など各種の規制緩和が行われた。関西では、阪神電気鉄道が都市間電気鉄道としては日本で最も古く明治38(1905)年に営業を開始した。大阪神戸間敷設計画は東海道本線の並行線であったため政府の鉄道作業局が反対していたが、当時の内務省幹部から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、鉄道作業局が所管する私設鉄道法ではなく内務省と鉄道作業局が共同で所管していた軌道条例に依拠し、一部を除きほぼ全線を高速運転に有利な世界標準機の専用軌道にて開業したのである。

阪神に続き大手私鉄各社が軌道条例に基づき開業する中、大阪電気軌道(大軌)は阪奈間の高速電気鉄道敷設を計画し、経路選定に当たって、最も短絡性に優れた生駒山越えの長距離トンネルを掘削する経路に決定した。生駒トンネルは延長3,388mで、複線標準軌のトンネルとしては当時日本最長であり、掘削工事は困難をきわめ、大規模な岩盤崩落事故も発生し苦難の連続であったが、大正2年4月に竣工した。翌年4月に上本町奈良間を開業し、同区間を55分で結んだが、莫大な建設費がかさみ資金繰りに窮した大軌は、債務整理を経て経営難を乗り切ることができた。

大正3(1914)年4月30日には上本町~奈良を開業した大軌は、さらなる路線延伸を目指し、大正5(1916)年3月20日、西大寺駅から国鉄畝傍駅付近に至る路線の出願を行った。当時県内において、大軌以外では国鉄関西線・桜井線・和歌山線等が運行していたが、奈良県北和・中和地域を南北に貫く同路線開通は、地域の利便向上が大きく期待されるもので、大正(1918)7年11月19日に営業継続に支障を来すことが予想される天理軽便鉄道・大和鉄道の合併を条件として認可に至った。そして大正12(1923)年3月21日に西大寺・橿原神宮前間の畝傍線(現橿原線)が全線開業し、上本町・橿原神宮前間で直通運転を開始、1時間20分で結んだ。昭和14(1939)年7月28日の橿原神宮前駅整備事業完成とともに、畝傍線から橿原線に名称変更した。

その後、大阪線など自社線の敷設・延伸に加え、天理軽便鉄道、大阪鉄道、生駒鋼索鉄道、吉野鉄道、大和鉄道、信貴生駒電鉄、奈良電気鉄道などが、大軌や後継の関西急行鉄道・近畿日本鉄道によって買収され、路線網に組み込まれることとなった。大軌や被買収私鉄には営業路線以外にもいくつかの計画線が存在したが、日の目を見ることなく未成となった路線も存在した。買収線には幹線に準ずる扱いを受けた路線がある一方、軌間の違いや経営方針によって積極的な投資が見送られたり、不要不急路線に指定され廃線になった路線、あるいは他社に買収合併されていた可能性がある路線もあった。大正から昭和初期にかけて投資対象として有望であった鉄道事業には、政府の規制緩和方針も相まって多くの参入があったが、当時の経済情勢や営業成績推移、鉄道会社間の競争によって大きく路線の運命が左右されたと言える。

今日、日本最大の路線網を持つ民鉄となった近畿日本鉄道は、近代的な高速電気鉄道による都市間交通(インターアーバン)による大都市間の輸送を目的として創業し、阪急電鉄などと同様に、次第に発生してきた中間層の通勤・通学利用を促すため住宅開発を行うとともに、各種レジャー施設(球場・温泉・遊園地等)を沿線に整備し積極的な沿線培養、旅客増加策をとった。そして、阪奈間にとどまらず、自社線延伸に加え数多の鉄道会社を傘下に収めて三重・愛知・京都へと路線を延ばし、広大な路線エリアに有する観光地、特に“聖地”である寺社仏閣・皇陵や、点在する景勝地への積極的な旅客誘致を行っていたこと、そしてそれが後の特急網の整備へとつながっていったと言える。

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