
《公開講座記録》【人文学へのいざない】第5回
●2026年6月20日(土) 午後1:30
●テーマ:「お墓で転ぶとどうなる?―猫と人の俗信研究事始め―」
●講師 齊藤 純(歴史文化学科 教授)
内容
民俗学が扱う占い・予兆・禁忌といった俗信、つまり何気ない身近な信仰から、墓と猫に関する不思議な言い習わしを紹介し、その特徴と分布、背後にある民間信仰を探ります。
さて、私は京都市育ちなのですが、昭和9年に奈良県桜井市に生まれた母は「お墓で転ぶと山猫になる。怖いので転ばないよう皆で手をつないでお墓に行った」と言っていました。こんなことは京都では言わず、各地で民俗調査をするようになっても聞いたことはない。どうも奈良県独特の俗信らしく、昭和33年生まれの私より10歳ほど上の桜井市生まれの従姉にも聞くと「お墓で転ぶと猫になると言った」という。さらに私が「山猫になると言わなかったか」と尋ねると「そうそう山猫と言った」という返事でした。
では、全国ではどうなのか。国立歴史民俗博物館が「データベースれきはく」をネット上で公開していて、その中に「俗信データベース(動植物編)/(身体・病編)」があります。この(身体・病編)に「墓 転ぶ/ころぶ」という検索語を入力すると、他地方では「墓で転ぶと死ぬ/寿命が縮む」というのが普通で、「猫になる」はない。また、(動植物編)に「猫になる」を入れると、「墓道でこけたら猫になる。奈良県【伝承地】奈良県奈良市【書名】東里村史」「中峰山天王の猫坂で倒れると猫になる。奈良県【伝承地】奈良県山辺郡山添村」がヒットします。一方、他地域では「墓で転ぶと~」は見られません。
私が授業で学生にアンケートをとったところでも、50名中15名から「墓で転ぶと~」という俗信の回答が得られました。そのうち「猫になる」という答えた7名はいずれも奈良県で聞いた俗信で、「山猫」になるという回答もありました。それ以外は県外で、「死ぬ/大きな怪我をする」が大部分です。また、天理市内の文化講座で同様のアンケートをとると、19名中11名から回答があり、「猫になる」は18名、「死ぬ」が1名。いずれも県内在住者で、「よそでは猫になると言わないのか」と驚いた方もいたということです。
さらに、2023年9月、大学の民俗学実習で奈良市田原地区を調査した時、十輪寺墓地参道の坂道が「猫坂」と呼ばれ、「転ぶと猫になる」と言っていたと聞きました。
こうした俗信を、2020年8月21日『毎日新聞』奈良版の記事「大和の妖怪たち5 猫坂」が紹介していました。墓ではない例ですが、「転ぶと猫になる」という山添村中峰山の神波多神社(天王社)参道の「猫坂」と東大寺大仏殿東の「猫段(旧猫坂)」、それに県内で一般的な「墓で転ぶと猫になる」という俗信です。また、山添村の開業医で議員の野村信介氏が患者や知人などに調査していて、33例の回答と分布図をネット上に公開しています(HP「やんばいのお山添村」2020.1/08「スベラネーコ」誕生物語・山添村のNEW FACE・第二話)。それによると、滋賀県大津市や京都府木津川市、三重県名張市、奈良県の宇陀市、黒滝村にも少数例がありますが、多くは奈良盆地と大和高原です。その中には「山猫」「墓猫」という言葉もありました。奈良県などの方言で、葬式の墓穴掘りを「山行き」と呼ぶ例があり、「山猫」も生物学上のヤマネコではなく、墓の猫という意味でしょう。
どうして奈良県独特の俗信が生まれたのか。よくわからないのですが、全国的な「墓で転ぶと死ぬ」の地方版とみなせます。また、猫と死体に関する全国の俗信に「猫が近寄ると死体が動く/生き返る」というのがあり、死体が動いたりする理由について、鈴木棠三編『日本俗信辞典』では「猫は死人の体の中へ自分の魂を入れる」「死人にネコの霊がのりうつる」「ネコの魂が入る」といった各地の解釈(それ自体も俗信ですが)を紹介しています。これらを合わせ考えると、墓で転ぶと死ぬ→その死体を墓にいる猫が動かす→死体が猫に支配される、猫の魂が入る→死体は猫になる→墓で転ぶと猫になる…といった地方的な展開が一応考えられます。だとしても、なぜ奈良県独特の分布なのか? また、墓でない例はどう説明できるのか? 東大寺の「猫坂」については、近世の地誌を見ると、坂の上の旧浄土堂付近に、東大寺再興に尽くした源頼朝や俊乗坊重源らの供養塔があったことがわかりました(これらの石塔は元禄6年に撤去されました)。葬式をせず、境内に墓地もない東大寺では、埋葬地ではないにしても死を思わせる施設の場所といえるでしょう。それでも、神波多神社の「猫坂」については不明です。わからないことが多く、手をつけ出したばかりで、「俗信研究事始め」とした次第です。