天理大学祭【天理大学百年史コラム(8)】 2020.12.18 天理大学百年史

2019年第71回天理大学祭

2020年11月5日~8日(5日は前夜祭)にかけて、第72回天理大学祭が開催予定でしたが、コロナ禍の影響により、中止となりました。
72回という長い歴史の中で、本学の大学祭が中止されることは初めてです。
毎年、学生が趣向を凝らし、準備に奔走し、練習を重ね、協力しあい、作り上げてきた大学祭です。
本年は開催できませんでしたが、来年は再開できることを願って、70年以上にわたって開催されてきた天理大学祭の歴史を振り返ります。

開催回数の謎

2020年は天理大学が発足してから72年目にあたり、開催されていれば第72回目の大学祭でした。つまり、さかのぼれば第1回は天理大学発足の1949(昭和24)年に開催されたということになります。しかし、1949年のプログラムや関連する資料が残っておらず、この年の大学祭の内容については全く不明で、日誌にも大学祭が開催されたという記録がありません。

そして翌年の日誌には、10月23日に「大学第一回・語専第二五回文化祭を開催した」とあります。この記載が正しければ、第1回は1950年に開催されたということになります。
ちなみに、天理大学の前身である天理語学専門学校(天理外国語学校から改称)は、1951(昭和26)年3月に最後の卒業生を送り出します。したがって、1950年の時点では、大学と語学専門学校が併存しており、学祭を共同で開催していました。

1950年10月23日の日誌

そして、1951年以後も毎年開催されていることがわかっています。開催回数が明確にわかるのは1956(昭和31)年の第8回からで、それ以前のプログラムや資料には回数が明記されていません。1956年は開学8年目に当たるので、開催された記録がない1949年を第1回としている計算になります。

ただし、1949年には「大学祭」とは称していないイベントがおこなわれています。5月25・26日に本学開学記念芸能祭が、9月21日には吉田進氏による講演、そして映画会も上映されています。吉田氏は、天理教アメリカ伝道庁長で、本学馬来語部の卒業生です。
こうしたイベントを第1回大学祭と換算したと考えることもできますが、そうであれば1950年の日誌の記載が誤りであったのでしょうか。
現状では、どちらが正しいのかはっきりしていません。この謎については、今後も調査していく必要があります。

1956年の大学祭プログラムの表紙
1956年の大学祭プログラム。「第八回」と記されている

語専と大学主催の文化祭

学祭の内容を記録でたどることができる最も古い年は1950年です。このときの学祭ではどんな催しがあったのでしょうか。
10月23日の午前9時から午後10時にかけて、天理大学・語専心光会の主催にておこなわれました。この時の名称は大学祭ではなく文化祭です。
プログラムは、マライ語部・ドイツ語部・イギリス語部・華語部・フランス語部の語劇に加え、コーラス、天理高校の吹奏楽、天理大学軽音学部の演奏、天理大学ジャズクラブによるジャズ演奏、佐藤秀麿氏の独唱、宗教学科演劇研究班共演の演劇、そしてフランス映画上映という盛りだくさんの内容でした。

1950年の文化祭のプログラム。3つ折りを開いた状態。右端が表紙になる。
1950年の文化祭のプログラム。

当時、天理大学にはまだ外国語学部はなく、外国語が学べるのは文学部中国文学中国語学科・英文学英語学科・朝鮮文学朝鮮語学科の3学科のみでした。ドイツ語やフランス語などの外国語科は短期大学部におかれていました。
語劇は天理外国語学校時代からの伝統行事ですが、この文化祭で語劇を披露したのは、大多数が語専の学生でした。マライ語部とドイツ語部の語劇の出演者は、全員が語専の学生で構成されていましたが、イギリス語部は大学から2名の女子学生が、フランス語部でも1名の短期大学生が参加しています。華語部に関しては、語専・大学・短大それぞれの学生からキャスティングしています。また、宗教学科演劇研究班共演の演劇では短大の保育科や生活科の女子学生も参加していました。

文化祭に合わせて前日には、仮装行列がおこなわれました。これは天理大学心光会の主催です。行列の順路は、本学を出発し、天理本通りへ、その後豊田山墓地へ向かい、そのまま本学へ戻るというルートです。また24日は、天理大学よふぼく会主催の宗教講演会が午後1時から4時半にかけておこなわれました。天理高校一部の学生6名、天理高校二部の学生3名、天理大学生5名がそれぞれ講演をおこないました。

また、1951年から1957年までは、プロのバレエ団を招いてのバレエ鑑賞も頻繁におこなわれています。写真をみると、子供たちが舞台のすぐそばでバレエ鑑賞を楽しんでおり、学生だけでなく、一般のおとなも子供も、この大学祭の催しを楽しんでいることがわかります。 

仮装行列の集合記念写真
大学祭でのバレエ公演、天理教館にて(1954年、集成部史料掛所蔵)
1960年第12回天理大学祭語劇(集成部史料掛所蔵)
1963年第15回天理大学祭講演会、大島渚氏「映画と私」(集成部史料掛所蔵)

前夜祭の変遷

さて、学祭前日におこなわれる前夜祭ですが、昭和年間は基本的には前夜祭があり、翌日から大学祭1日目が始まるというプログラムでした。ただし、特に前夜祭を設けていない年もあります。また近年は前夜祭を初夜祭と呼ぶ年もあります。
初期の1951年から1954年までの大学祭では、前夜祭はおこなわれていません。ただし、1950年の文化祭では前日に仮装行列がおこなわれているので、これが前夜祭に当たると思われます。

1955年からは毎年前夜祭がおこなわれるようになりました。この年は、本学の創立30周年にあたり、11月18日から23日までの6日間にわたって創立30周年記念祝賀会がおこなわれました。その記念として、18日に前夜祭、そして19日から21日にかけて大学祭がおこなわれました。18日の前夜祭では体育館でフォークダンスが繰り広げられました。
それから1957年までは、同様に体育館で前夜祭がおこなわれ、フォークダンスやスクエアダンスを楽しんでいます。
自治会発足10周年記念となる1958年の前夜祭では提灯行列がおこなわれ、その後はしばらく軽音楽演奏と学内芸能コンクールが続きます。

1966年の第18回天理大学祭から、市中デモンストレーションと題し、本学と天理駅間のパレードが始まります。
1986年にはそれが御輿パレードという名称へと変化し、1993年頃からはこのパレードは大学祭の最終日や最終日前日におこなわれるようになり、語劇と並んで学祭の目玉ともいえるようになります。2003年からは御輿を担いだパレード行事は、巨大灯籠の展示及び学内でのパフォーマンスへと姿を変えました。 

南棟北側から出発するパレード行列(1971(昭和46)年第23回天理大学祭)
天理駅前を歩くパレード先頭のフラワーガールと馬術部(1971(昭和46)年第23回天理大学祭)
前夜祭のファイヤーストーム(1971(昭和46)年第23回天理大学祭)
最終日のダンスパーティー(1971(昭和46)年第23回天理大学祭)

一週間以上の学祭開催

1950年の文化祭は10月の開催でしたが、翌年は12月1日2日におこなわれました。
その後は、11月の下旬におこなわれることが多く、秋から冬へと季節が移り変わり、風も冷たく感じる頃におこなわれていました。
1963年は、11月10日から開催され、それから現在に至るまで11月上旬に開催されるようになりました。

日数に関しても、近年は前夜祭を含め4日間で、初期の頃も1960(昭和35)年までは同様に4日間もしくはそれ以下の日数でした。しかし、1960年代から1970年代になると5日間、6日間、最長で8日間という長期日程に変化していきました。1980年代後半から次第に5日間・4日間の日程へと減少していきました。 

開催場所に関しても、最初は天理教館がメインで、第2会場として三島公会堂が使用されていましたが、1965(昭和40)年に南棟校舎が新設されたことにより、南棟校舎と天理市民会館、グラウンドが会場として使用されるようになりました。その後は体育館も使用されるなど、キャンパス内の変遷とともに会場も移動していきました。 

学生部長が乗ったジープのあとに、各学科や寮の御輿が続く。この年は8日間にわたって学祭が開催された。(1975(昭和50)年第27回天理大学祭)
新しい会場となる南棟校舎の写真が掲載されている。まだ煙突が完成しておらず、3号棟もない。(1965(昭和40)年第17回天理大学祭プログラム)

統一テーマ

毎年統一テーマが作られていますが、本学の学祭において初めて統一テーマがみられるのは1964(昭和39)年の第16回からです。
このときの統一テーマは「実」です。そして以後は「踏破」「創造」と少し堅いイメージのテーマが続きます。

1967(昭和42)年と1968年は「中心性の確立とその具現」という同じテーマが2年続き、さらに1969年は「独自性の確立」という、それまでに増して堅いイメージのテーマが掲げられます。
しかも1969年のプログラムでは、冊子の中央ページに厚紙を一枚入れ込み、そこに筆書きで力強くこのテーマについて主張しています。文面や文章形態から、学生運動が盛んであった当時の歴史背景がうかがえます。
また、70年以上の天理大学祭の歴史の中で唯一テーマソングを掲げているのも、この1969年だけです。曲はいずみたく作曲の「君の国を」です。(本来は「君の祖国を」であるが、プログラムには「君の国を」と書かれている)
その後は「はばたき」「げんてん」「感謝」「生きる」など、一言で伝わる柔らかいイメージのテーマへと変わっていきます。

統一テーマ「独自性の確立」についてのページ(1969(昭和44)年第21回天理大学祭プログラム)

1988(昭和63)年には、「"感動100℃~めざめよ、君の出番だ!!~”」という、それまでの一言で表したテーマを打破した、全く違う形のテーマが使われるようになります。2000年代以後は、同様に少し長文でメッセージ性のあるテーマが踏襲され、「夢花火~天までとどけ!その笑顔( ̄∀ ̄)~」(2006年)といった顔文字が使われる年もありました。
毎年の統一テーマを見るだけでも、それぞれの時代を感じさせる力があります。

舞台に掲げられた統一テーマ(1988(昭和63)年第40回天理大学祭)
統一テーマの看板(2006(平成18)年第58回天理大学祭)

このように天理大学大学祭は、70年以上の歴史を持ち、毎年学生たちが創りあげてきた本学の伝統行事です。この大学祭で、日頃の練習の成果を発表したり、初めての文化芸術に触れたり、新しい仲間や友人ができる人もいれば、あるいは、この期間を休暇とする学生もいるでしょう。どのように大学祭の期間を過ごすにしても、新たな経験ができる貴重な数日です。
来年は必ずこの天理大学大学祭が開催できることを願ってやみません。

参考資料

・昭和二十五年度「文書往復綴」天理大学(年史編集室収蔵)
・昭和二十四年四月「日誌」天理大学庶務(年史編集室収蔵)
・『天理時報』第1105号(1951年12月9日)/1156号(1952年12月7日)/1206号(1953年11月29日)/1256号(1954年11月28日)/1307号(1955年11月27日)/1389号(1956年12月2日)/1440号(1957年12月1日)/1542号(1959年11月29日)/1593号(1960年11月27日)

※特に所蔵先を明記していない写真については、すべて年史編集室収蔵資料です。


(年史編纂室 吉村綾子)

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