新聞記事で見る本学の創立から校舎建設まで(前編)【天理大学百年史コラム(15)】 2022.02.16 天理大学百年史

校舎落成式当日

1925(大正14)年に本学の前身である天理外国語学校が創立され、翌1926年に校舎(現1号棟)が建設されました。
創設から校舎の完成までを当時の新聞記事(朝日新聞大和版)ではどのように報じたのかを紹介します。またこうした変化にともなって周辺地域がどのような影響を受けたのかを新聞記事からたどっていきます。

1925年2月18日「愈四月から開校 天理外国語学校 海外布教者養成が目的」

〈前略〉学校には本科及び選科を置き修業年限は本科三年選科六ヶ月、本科は支那語、蒙古語、馬来語、印度語、西語、英語、露語、佛語、独語、伊語の十部に分れ当分の内朝鮮語部を置く〈中略〉授業料は本科一学年五十円選科は月額二円で本年四月より開校する、目下天理教ではこれが開校の準備に忙殺されてゐるが校舎は地価の関係上直に建築せず適当な時期に建てんとする意向である(奈良)

天理外国語学校の開設と、その概要が新聞で報じられました。
同年1月24日の夜、天理教青年会役員の会合がおこなわれ、そこで外国語学校設立案が提出され、29日には創立委員が決定され、創設に向けた準備が急ピッチで進みます。そして、2月10日に私立学校令による学校を創立する願書を奈良県へ提出し、同月17日に認可がおります。翌日には、このように新聞にて報道され、多くの人が天理外国語学校の開校を知ることになります。当時、外国語学校は東京と大阪の官立の二校のみでした。 

天理外国語学校設立認可書控
大正14年2月付「入学志願者心得」

1925年3月3日「天理外語校の設立地」

山邊郡丹波市町天理教本部が外国語学校を設立することは既報の通り既に県の認可も得、本年四月より現在の天理中学校に於て五十名の生徒を募集して教授を開始する筈であるが、これが校舎敷地は同町大字杣ノ内木堂方にほぼ確定し目下土地買収の交渉中であるがこれを聞いた附近大字中■※に大字田、石上を初め朝和村大字三昧田、二階堂村大字指柳等も自大字内へ学校を引かんものと相当有利なる條件を提供し激烈に運動中である(丹波市)

大正14年3月の生徒募集広告(『道の友』1925年3月5日号)

実際に敷地が買収されるのは同年11月で、大字杣之内山口方に校舎(現一号棟)を建設します。記事にある杣之内木堂方は校舎のすぐ東側の地区を指します。この記事をみると、開校前より、敷地を杣之内に設けることがほぼ確定していたことがわかります。
また、朝和村や二階堂村といった、少し離れた地域を含めた周辺地域からの誘致があったことからも、おそらく様々な交渉を経て、現在の敷地に決定されたとみられます。
※「中山」もしくは「中庄」か

1925年4月15日「天理教管長就任奉告祭 各校開設披露その他余興の大煙花」

山邊郡丹波市町三島天理教本部管長就任奉告祭は二十三日午後八時より本殿に執行引続き二十五日には外語学校、天理小学校、天理幼稚園の開設披露式を天理中学校講堂で二十七日は既記天理教婦人会総会を天理教館に二十八日は天理高等女学校第二回春季陸上競技大会を何れも開催する筈〈後略〉

1925年4月26日「三校開設披露式」

天理教本部では二十五日午前十時より天理中学校で天理外国語、同小学校、同幼稚園三校の開設披露式を挙行
開式挨拶、国歌合唱、勅語奉読校主告辞、教学部長開設披露の辞、来賓祝辞、天理唱歌、閉式の辞
で正午終了来会者多く盛況であつた

天理中学校の門柱に「天理中学校」と「天理外国語学校」の門標が掲げられている(『道の友』1925年3月5日号)

開設披露式がおこなわれた日の午後には、先におこなわれた管長就任奉告祭の祝賀飛行として大阪西田飛行場より飛び立った飛行機が、御地場の上空で舞い、機上から10万枚の五色のビラをまいたことも報じられています。こうした催しも手伝って、三校の開校式当日は各校のみならず、周辺地域一帯が華やかな雰囲気に包まれた一日だったことが想像できます。

1925年10月4日 「天理教図書館いよいよ建設する」

山邊郡丹波市町三島天理教本部では天理教図書館を開設すべくすでに七年も前に提唱されてゐながら今日までその完成を見なかったが〈中略〉本年度中に図書を整理し四十年祭を行はると同時に建築に着手するはずで場所は八月中旬買収契約出来たる丹波市町大字杣之内に天理外語学校とともに設けられることとなった
「天理小学校改築」
児童の増加とともに校舎の狭隘を来しつつあるより近く一大校舎を新築するはずで本年中に完成の予定であると

ハガキ「御本部外国語学校」「御本部図書館」とキャプションがついている

記事には、天理教図書館が「天理外語学校とともに設けられる」「四十年祭を行はると同時に建築に着手するはず」とありますが、この記事の1年後の1926年10月28日に落成式がおこなわれるのは校舎のみで、まだ図書館は建設されていません。しかしこの記事では、校舎の建設というよりは、図書館の建設が見出しにもなっています。実際に図書館(現附属図書館)が建つのは1930(昭和5)年で、それまでは先に完成する校舎の3階の教室が図書館の役割を果たします。

1925年11月20日 「教祖大祭で地価の暴騰 お百姓が百万円のもうけ それを狙ふ銀行の預金争奪戦」

山邊郡丹波市町は近来天理教本部の発展のため地価も非常に暴騰を来しつつあり最近四十年祭を前にして天理外語学校敷地を始め省線仮停車場その他の敷地として約二十五町歩余を買収しこれが代価約百万円は売主なる附近の農家の手に入るわけであるがこれを聞いて六八銀行の丹波市三島の各支店、産業銀行の丹波市、三島の支店、吉野銀行支店、三四銀行奈良支店、山口銀行等の各銀行は色々のつてをもとめて預金を徴収せんと過日来協定の利率を破ってまでも預金の争奪につとめてゐる結局各銀行の預金額は如何になるか一般に興味をもって注目されてゐる

土持ひのきしんがおこなわれている外国語学校敷地。南から北に向かって撮影。(『道の友』1926年1月5日号)

『開校十年誌』には、「同年十一月十六日奈良県山邊郡丹波市町大字杣之内元山口方千0五十番地に於て四萬五千三百余坪の敷地を買収」とあります。半年以上前から各所からの学校敷地に対する誘致もあり、近隣の住民らはその動向に目を向けていたはずです。さらに、その動きを各銀行も逃す手はないと、客の獲得に紛争していたことがわかります。
土地が買収されて間もない頃に、生徒たちが土地の見学に訪れます。11月30日の第2時限の修身の時間に、外語の主任である中山先生が生徒らに「今日は諸君に新しく決った外語の敷地を見せに行く」と言って、一同は校舎建築予定地に出かけ、小高い山から見学しています。この小高い山は現天理高校校舎南側辺にあった小半坊塚古墳の上でしょうか。予定地は道もない田畑の真中だったといいます。そして小野靖彦先生が「洋館の素晴らしい校舎が建ったら、さぞ山の狐がびっくりするでしょう」と言ったそうです。本学の校地ができあがる約100年前の姿が浮かび上がります。

1926年7月4日 「天理外語学校地域拡張 プールも設ける」

山邊郡丹波市町大字三島天理外語学校は目下新築中であるが今回更に南方に用地を拡張すべく過般来土地所有者に対し買収方を交渉中のところ〈中略〉田地二段五畝歩をこのほど坪十三円で売買成立した模様であるが、なほ三段歩余を買収交渉中である、また語学校東方大字杣之内地約七段歩は従来同地より灌漑した耕地は外語校敷地となつたのでこれも不用となつたため同校の消防用水およびプールとすべくこれも買収交渉中であるが、工事は八月中旬竣工の見込みで九月上旬から寄宿舎六棟の工事に移る、この経費三十万円であると

この記事の少し前の6月27日、校舎(現一号棟)の上棟式がおこなわれました。木造と異なり、鉄筋コンクリート造では、上棟式がおこなわれる時点では、ほぼ建物の形ができあがっているそうです。
また見出しにもあるプールの設置についてですが、実際にはプールはつくられませんでした。しかし、1928(昭和3)年3月の「天理外国語学校敷地平面図」にも、プール予定地が示されているため、その後もプールを設ける計画案はあったと考えられます。場所は、現在の附属図書館の北側です。

「天理外国語学校敷地平面図」1928年3月
上棟式の様子(『道の友』1926年7月5日号)

1926年7月24日 「天理外語と幼稚園の増築」

山邊郡丹波市町の天理教天理幼稚園は園児の増加と共にバラツク建の園舎が狭隘を告げるので今回天理高女西側土地二百三十坪を講入し本舎および雨天体操場を建築することに決定したが同園への通行道路として本部横の三島氏神社北側から同園に至る間に五間幅の新道路を設けることになつた。なほ天理外語校では同校南側へ三間と三十間の二階建寄宿舎二棟を建築することになつたがいづれも本年中に完成の予定である

先の記事では寄宿舎6棟とありましたが、こちらの記事では2棟とあります。実際には、本館と寮舎3棟、舎監住宅2棟が建てられました。また、本年中に完成予定とありますが、学生らがこの新築の寄宿舎に入舎したのは、1927年4月3日で、同29日に開舎式がおこなわれました。この本館は2021(令和3年)3月の閉寮を迎えるまで、杣之内ふるさと寮として使用され、建物は残っていますが、現在は使用されていません。
また、記事にある天理幼稚園についても、寄宿舎と同じく1927年4月25日に幼稚園にて、幼稚園と託児所の新築落成式がおこなわれました。

建築途中の校舎(現1号棟)(集成部史料掛所蔵)
建築途中の寄宿舎(旧杣之内ふるさと寮)(『道の友』1927年1月20日号)

後編のコラムはこちら

参考資料

・『昭和二年度天理外国語学校一覧』天理外国語学校
・『天理高等学校百年史』第二部編 天理中学校・天理高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2008年9月
・中村則之『雪と共に』天理教北越分教会 1975年9月7日
・『道の友』431号 天理教道友社 1925年2月5日
・『道の友』456号 天理教道友社 1926年2月20日
・『開校十年誌』山澤為次編 1935年
・川島智生「天理大学キャンパス計画と本館建築について」『文教施設』84 2021秋号 一般社団法人文教施設協会発行 2021年11月12日


(年史編纂室 吉村綾子)

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