1925(大正14)年に本学の前身である天理外国語学校が創立され、翌1926年に校舎(現1号棟)が建設されました。
創設から校舎の完成までを当時の新聞記事(朝日新聞大和版)ではどのように報じたのか、後編です。
1926年8月21日 「三十六万円に達した私立諸学校の十五年度予算総額」
県下における私立中等学校ほか諸学校の大正十五年度の予算はこのほど漸く出揃つた、この総額三十七万九百五円九十一銭この内学校が二十校で予算三十六万二千四百九十九円九十一銭と幼稚園三園で八千四百六円である、これを区別すると(単位円)
〈中略〉天理中学七八、〇〇三 同高女五三、七九〇 天理教校四九、二六六 同外語五八、九〇〇 天理小学七、五二〇 同幼稚園五、八七〇
奈良県下の諸学校の大正15年度の予算のうち、天理教管内の各学校の予算も記されています。管内の学校の中では、天理中学が一番予算が多く、次いで、外語の58900円となっています。天理中学は、1925年に定員を千名に増員し、20学級に定めました。同年の入学者は193名、次年度は129名の入学者を迎えています。天理外語の1926年10月時点での全生徒数は119名で、同年の入学者は60名です。圧倒的に生徒数の違いはありますが、この年より校舎も竣成し、新たな環境を整えるためにも天理中学以外の他校より多く予算が設定されていたのでしょうか。
なお、入学希望者にかかる費用としては、1926年度の天理外語への入学手数料は2円、寄宿舎費(食費、舎費、薪炭費等)は1ヶ月15円に定められていました。
ちなみに当時の物価は、景気を報じた記事(1925年11月21日朝日新聞大和版)を参考にすると、白菜1貫が25銭から50銭に、シメジ100匁が35銭から65銭に、丸大根1本が5銭から10銭に値上がり、白米1升が48銭から46銭に、小豆1升が47銭から40銭に、値下がりしたとあります。
1926年9月3日 「竣工せる天理外国語学校」
山邊郡丹波市町杣之内における天理外国語学校舎新築工事は既報の通り大阪橋本組の手によつて本年春以来工事を急ぎつつあつたが此程漸く竣工、三十一日天理教本部へ引つぎを了したので一日よりいよいよ新校舎において授業を開始したが同校舎は東西三十六間四階建にて一偉観を呈している
いよいよ、校舎の竣工が報じられました。実際の新聞記事には校舎の全景を写した写真が掲載されています。
1926年10月23日 「天理外語校 落成式挙行」
かねて新築中の天理外語学校新校舎はこのほど竣工したので来る二十八日落成式を挙行する同校舎は約三十万円を投じたコンクリート三階建で建坪三百二坪、教室その他の室を合して四十余室、延九百四十坪であるが目下日本建寄宿舎を建築中右の土工などは天理教独特の日の寄進になつたものである
1926年10月27日 「天理教の秋季大祭 わきかえる丹波市町 信徒五万の集ひ 関係学校の各種展覧会」
山邊郡丹波市町三島天理教本部は二十六日午前十時より神殿において秋季大祭を執行全国各地より参集の信徒約五万早朝より本殿へつめかけさしもに広き神殿廻廊は勿論大広場まで人を以てうづまれた〈中略〉なほ天理中学校と天理高等女学校では二十四日より書画展覧会を開催、天理教外語学校では管長渡満の際一行の撮影せる写真展覧会を開催した
二十七日は引続き青年大会を二十八日は天理外語学校落成式を挙行されるはずで当分は綻ふが不景気風は何処も同じく吹きすさぶものと見えて売行はほとんどなく露天商人はこぼしてゐる
1926年1月の天理教教祖40年祭を迎えるにあたり、天理教本部がある三島周辺では、外語の敷地も含めた広大な土地の買収がおこなわれます。1925年11月20日の記事にもあるように、これにより地価は高騰し、さらに駅の仮停車場の設置や周辺道路の拡張工事がおこなわれるなど、当地域の経済に大きく影響を与えます。
新聞記事でも1925年5月頃から40年祭に関する記事が度々報じられ、11月頃からは頻度も多く、12月には紙面1面を飾るような大きな記事が報じられます。いかに世間が大きな関心を寄せていたかがわかります。
1920年代の日本経済は慢性不況と呼ばれるほど、度重なる恐慌がおこります。記事に「当分は綻ぶが不景気風は何処も同じく吹きすさぶもの」とあるように、こうした動きにより局地的に一時的な経済の向上がみられたものの、全体の不景気は変わらなかったといえます。
1926年10月28日 「天理教青年会第八回総会 きのふ天理教館で」
既報山邊郡丹波市町三島における天理教青年会第八回総会は二十七日午前九時より天理教館において開催〈中略〉当日は前日来に引続き御地場は大雑踏を呈した、なほ今二十八日は天理外国語学校の落成式を挙行すると共に各関係学校の聯合大運動会を開催のはずである
1926年10月30日 「天理外語落成式 来賓多数で盛況」
既報天理教外語学校落成式は二十八日午前十一時より同校敷地のテント内において挙行、朝来よりの雨をおかして出席せる来賓約一千五百名、第三鈴を合図に一同着席中山外語主任の開会の辞についで国歌合唱、勅語奉読、増野工事主任の建築経過報告あり、別府知事および校主天理教管長中山正善氏の告辞、教学部長松村吉太郎氏の式辞についで来賓大阪外国語学校長中目覚、東京外国語学校長代理文学博士谷本冨、県下中等学校長総代増戸郡中学校長、県会議員総代中島志賀太郎以下諸氏の祝辞あり終つて天理唱歌合唱中山為信氏の閉会の辞で零時四十分終了、引続いて宴会にうつつた、なほ当日は雨天のため各学校聯合運動会は延期して三十日に挙行することとなつた
校舎(現1号棟)が落成したのちは、校舎を中心として周辺に寄宿舎(旧杣之内ふるさと寮本館)、武道館(現天理高校第2柔道場一部)、附属図書館、グラウンド、講堂(現伝道実習棟)が建設されていき、現在もそのほとんどが当時のままの姿で残されています。校舎については、川島智生氏が『文教施設』(84 2021秋号)で、当時のキャンパス計画や、校舎の設計を担った武田五一、岩崎平太郎について、また校舎の構造や建築スタイルなど、現在まで残る建築当初からの特徴を報告されています。
参考資料
・『昭和二年度天理外国語学校一覧』天理外国語学校
・『天理高等学校百年史』第二部編 天理中学校・天理高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2008年9月
・中村則之『雪と共に』天理教北越分教会 1975年9月7日
・『道の友』431号 天理教道友社 1925年2月5日
・『道の友』456号 天理教道友社 1926年2月20日
・『開校十年誌』山澤為次編 1935年
・川島智生「天理大学キャンパス計画と本館建築について」『文教施設』84 2021秋号 一般社団法人文教施設協会発行 2021年11月12日
(年史編纂室 吉村綾子)
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