天理短期大学【天理大学百年史コラム(19)】 2022.06.17 天理大学百年史

校舎と学生たち。1955年(集成部史料掛所蔵)

1949(昭和24)年に天理大学が発足し、翌1950年に天理大学短期大学部が誕生します。その後、名称および組織変更を経て、1959(昭和34)年3月31日をもって短大は廃止となりました。
新制大学への移行期の本学の外国語教育を担い、児童教育及び家政に特科した専門的な女子教育をおこない、また現在の体育学部の前身となる保健体育科を生み出すなど、9年間という短い期間ではありましたが、449名の卒業生を送り出しました。

天理大学短期大学部の誕生

新制大学としての天理大学が発足したとき、前身となる天理語学専門学校の外国語部をそのまま天理大学に移行することができず、天理大学は文学部のみの文化系単科大学として出発します。設置された学科は、宗教学科、国文学国語学科、英文学英語学科、中国文学中国語学科の4学科でした。
翌1950(昭和25)年には朝鮮文学朝鮮語学科が増設され5学科となり、同時に天理大学短期大学部が創設されました。天理大学短期大学部は、同年12月に天理短期大学に改称されます。

この短期大学部に、それまで天理語学専門学校に設置されていた英語、中国語、朝鮮語以外の外国語学科(ドイツ語、フランス語、ロシヤ語、イスパニヤ語、インドネシヤ語の5専攻)を置き、あわせて保育科と生活科を設けました。外国語科においては男女共学制としましたが、保育科及び生活科においては女子のみとしました。
保育科は先にあった天理保姆養成所の立学精神に則って設置されました。天理保姆養成所は、児童教育の指導者養成を目的として、天理女子語学専門学校付属の養成所として1946(昭和21)年に開設されました。翌年に女子語専が天理語学専門学校(男子)と統合され共学となったことにより、保姆養成所は天理幼稚園内に移転し、1950(昭和25)年3月に廃所となりました。
生活科についても、同じく女子語専にあった特科家庭科が母胎になっています。生活科では、社会生活に必要な家政全般、即ち食品、栄養、被服や住居、家庭看護まで、これらを一般教養教育とあわせて専門的に学ぶことができ、小学校、中学校の教諭資格を取得することができました。
ちなみに、昭和25年3月付の「天理大学短期大学部入学要覧」では、外国語学科と家政学科が開設されており、家政学科の中に保育専攻と生活科学専攻が設けられており、当初は2学科で開設する計画だったとみられます。

この頃は、左側の門標に「天理短期大学」、右側の門標に「天理大学分教室」と掲げられている
天理短期大学校舎
短大で使用されていたとみられる重箱。木箱の蓋に「天理短大」とあり、重箱の蓋には短大の校章がある。
「天理大学短期大学部設置認可申請書」

外国語科は大学へ

短期大学部が発足した当時の定員は、外国語科各専攻各20名、保育科30名、生活科30名で、修業年限は2年でした。第1回卒業生(1952年3月)は、ドイツ語専攻6名、フランス語専攻3名、ロシヤ語専攻1名、インドネシヤ語専攻1名、保育科6名、生活科12名で、いずれも定員より少なく、またイスパニヤ語専攻においては卒業生が一人もいませんでした。第2回卒業生においては、ドイツ語専攻および保育科をのぞき、いずれも卒業生が増え、外国語科で23名、保育科2名、生活科14名の卒業生を送り出しました。

2年後の1952(昭和27)年4月より、短大の外国語科は天理大学へと移行し、天理大学は文学部(宗教学科、国文学国語学科)、外国語学部(朝鮮学科、中国学科、英米学科、ドイツ学科、フランス学科、ロシヤ学科、イスパニヤ学科、インドネシヤ学科)の2学部10学科に改組され、ようやく前身となる天理語学専門学校時代に設置されていた外国語科を擁する体制になりました。
この時の「天理短期大学外国語科廃止認可申請書」には、「(1)天理語学専門学校を大学に昇格の際、外国語大学案が未成立であったためにその当時の都合によって現在の五つの専攻の外国語を当分の間、短期大学において継承せしめることにしたのではあるが、これは本学として従来からとって来た外国語教育に対する最も望ましい姿ではない。(2)過去の経験に基いて外国語を二ヶ年で学習せしめようとすることはその十分な教育の成果が得られないことを知った」と外国語科の移行につき、当初から「当分の間」という前提で短大に設置したとあります。

1958年当時の「おやさと案内図」。鑵子山校舎(短大校舎)、移転先の短大保育科校舎(旧女学校校舎)、中寮、柔道寮などの場所が示されている(『おやさと』1958年より)
1959年当時の航空写真。左側の中央にあるのが現天理高校校舎。そのすぐ上にある建物群が鑵子山校舎と呼ばれ、この中に短大があった。中央には現1号棟がある。(集成部史料掛所蔵)
校舎平面図。おそらく短期大学部創設時の1950年の図面と思われる
1950年3月付、天理大学短期大学部入学要覧

図書館科と保健体育科を増設

1952年、短期大学の外国語科が廃止される一方で、図書館科と保健体育科が短期大学に増設されました。
保健体育科が新設された経緯については、1957(昭和32)年の『新体育』8月号に掲載されています。
1951年頃、文部省大学学術局庶務課長が天理大学に視察に訪れた際、体育施設の充分な設備が揃っているのをみて「この位、設備が整ったら、体育指導者を養成したらどうか、女の指導者が非常に不足しているから」という話が契機となり、短期大学に保健体育科が設置されたとあります。

体育施設のうち、当時完成したものとしては、1950年に竣工した体育館および天理プールがあげられます。この体育館は間口28m、奥行60mの500坪の大きさで、バスケットボール場2面、バレーボール場3面、体操競技設備、研究室、器具室、シャワー室、約600人を収容できるスタンドが設けられており、当時としてはこのような体育館は他になく、体操競技や柔道の国際大会の会場としても使用されました。

右中央にある建物が1950年に竣工した体育館。左上が1号棟及び旧杣之内ふるさと寮。下は天理高校。1963年撮影(集成部史料掛所蔵)
体育館内部の様子

また天理プールにおいても、完成を報じた天理時報には「現在わが国で出来る得るプール建設の最新式工程で施工」されたとあります。公認の50メートルプール、飛込プールを備え、水泳の全国大会にも使用されていました。終戦後まもない当時としては、このように体育施設が整った環境は珍しかったといいます。さらに、野球場やテニスコート、自然科学教室のほか、天理大学附属図書館では、保健体育関係の図書を2000点有しているなど、こうした充実した保健体育に関する設備が整っていたのです。
視察当時の話からもわかるように、本来は女子の体育指導者の養成に重きを置きたかったようですが、設置申請の段階で男女共学となり、結果的には女子より男子のほうが志願者が多くなりました。

また、すでに1951年に保育科に入学し、水泳で活躍していた大石康子、新子富子、片岡澄子、青木暉子の4氏の存在も保健体育科の増設理由のひとつであったと、高橋茂男氏はのちの座談会(天理時報1959年12月6日)で話しています。
大石康子、新子富子、片岡澄子の3氏は1952年に保健体育科に編入し、青木暉子氏は保育科に在籍したまま、初代女子水泳部として活躍しました。1951年7月には、新子富子氏が800m自由形で日本新記録を打ち出し、大石康子氏は1952年のヘルシンキオリンピックでリレーメンバーとして選出され、女子選手団のキャプテンをつとめるなど、短期大学の保健体育科の学生が活躍しました。

天理プール
天理プール、1954年撮影(集成部史料掛所蔵)

柔道指導者の養成

さらに、1953(昭和28)年には柔道指導者の養成を目的とした柔道に関する科目が増設されます。
この経緯としては、山本義泰教授によると、終戦後、旧武道専門学校の教授であった胡井剛一氏が、天理順正館道場師範をつとめており、旧武道専門学校の卒業生らから武道専門学校の復活を頼まれていたといいます。そうした声を汲んで、復活に奔走した結果「天理短期大学保健体育科に柔道を取り入れて、柔道の実力のある体育の教師を養成することが最も良い」と考え、最終的に天理教二代真柱中山正善に相談したところ、「それはいいことだ、早速大学の中で指導者を養成しろ」と言ったことが始まりとされています。
この柔道科目の増設につき、既刊の『天理大学五十年誌』、『天理柔道史』、また「天理柔道の歩み」を語った関係者らの座談会(天理時報1959年12月6日)では、「柔道コース」が誕生したと記していますが、当時の学則や要覧などの資料や書類には「柔道コース」という名称は出てきません。

例えば、「柔道指導者の養成」という題名で、「本年四月より本学の保健体育科の履修科目の中に柔道に関する科目を増設し後記の体育教員であると共に学校柔道の教師にもなり得る者を養成することになりますので、次に最少限度の必要事項を列記します」と入学者向けとみられる短期大学が作成した用紙が残っていますが、この中にも「柔道コース」の名称記載はありません。
また1954(昭和29)年3月28日の天理時報には「昨年度から設けられた柔道課程には二段、三段という猛者が主任教授松本七段の出身地九州から殊に多く応募してきている」という記事があり、ここでも「柔道コース」という名称ではなく「柔道課程」としています。
当時の教授会議録から、この件についての発言を抜粋すると1952年12月20日「保体科の実技の一としての柔道は認めらる」、1953年1月9日「柔道実技新設につき説明あり、唯柔道を教え得る学生を養成する程度の意なりと」といった発言がありますが、やはり「柔道コース」という名称はみられません。
こうしたことから、「柔道コース」という名称は当時の資料ではみられず、後に編纂された刊行物等でみられることから、制度的に学科内に設置されたコースではなく、柔道指導者養成のための柔道科目が増設されたことに対する通称として使われるようになったと考えられます。

こうして短大の保健体育科には全国の高等学校より柔道の覇者が集まり、短大開学より2年目で関西4位を勝ち取り、最終的には関西学生柔道の団体戦で大学は優勝し、短大は3位という成績を残しました。
そして、この短大の保健体育科の柔道課程を設置した際に、「卒業する時には(体育)学部にもって行くという約束をしていたわけです」(天理時報1959年12月6日)とあり、1955(昭和30)年3月をもって、短大の保健体育科と図書館科は廃止され、翌4月に天理大学に体育学部が増設されることになりました。短大の保健体育科に入学した学生は、家庭の都合等により、天理大学体育学部1年に入学、もしくは大学2年に編入といった形で大学へと進学し、短大の柔道は天理大学の体育学部へと継承されていきました。

「柔道指導者の養成」
天理短期大学要覧(1953年11月発行)

短大廃止反対運動

保健体育科が天理大学の体育学部へと移行し、図書館科も廃止されたことにより、短大は保育科と生活科の2学科となり、在籍学生は女子のみとなりました。
そして1957(昭和32)年4月より、天理大学の一部として、天理大学女子短期大学部に変更され再スタートを切ることになります。しかし、半年後の10月に、学校法人理事会より女子短期大学部の廃止の方針が打ち出されました。突然の発表に、教職員は闘争委員会を設置して存続を訴え、学生も廃止反対運動を展開します。この訴えでは、わずか10年ほどの間に、前身となる女子語専の廃校、保姆養成所の廃止、組織および名称の変更、校舎や女子寄宿舎のめまぐるしいほどの移転などを挙げ、これら過去の一連の事情から考えて、さらなる突然の廃止方針というのは女子教育を軽視している、というものでした。また天理大学に在籍する自治会男子学生も短大女学生に同調し、短大、大学が共に短大廃止反対運動を展開していくことになります。
この運動がどのように広がっていったのか、天理大学新聞に掲載された記事より、廃止反対の動きから終息までを追っていきます。

昭和33年度 学生募集停止届


同年11月1日、短大教職員全員が署名して廃止反対決議文を短大施設部長に提出。翌日、組合3役が岸学校本部長と会見し、廃止の撤回を申し込みます。同日、短大学部長が短大総務委員長に短大廃止問題について説明を行い、同4日には、総務委員に対しても同様に説明を行います。
これを受け、6日7日の両日、短大では総務委員会が開催され、廃止反対を決議します。11日、短大で緊急学生大会が開かれ、大学等への援助要請も決議し、廃止撤回運動への体制をととのえます。この学生大会には実に短大全学生130名のうち、102名が参加したとあります。
この緊急学生大会の直後に開かれたとみられる奈良学連議会にて、短大廃止運動のバックアップを要請し、さらに学生自治会が近鉄天理駅前にて反対署名運動をおこなうなど、新聞にもとりあげられるほど、反対運動は発展していきます。
一方で大学では大学祭等の行事と重なり、同月25日に開催予定だった学生大会が流会となり、改めて29日に学生大会を開き、短大との共闘態勢をととのえはじめますが、次第に大学は後退します。
しかし、『天理大学五十年誌』の当時の関係者の回想録では、連日、連夜といってもよいほどの交渉を重ねた末、11月21日に廃止の方向で事態を収拾する方針が決まった、としていることから、大学側が加勢した頃にはすでに短大関係者の中では、廃止を認めていたことになります。

そして最終的に短大が12月5日に決議文を提出し、「十二月三日に最終的にして決定的な回答を得た私達は憤りと悲しみの中に抗議大会をもちました。そこでもやはり廃止理由に納得することは出来ませんでしたが涙をのんで短大廃止を認めたのであります」として、廃止を認めた上でいくつかの要求を出します。要求内容は、学長及び部長からの謝罪、今後同様の事態が起こった場合は事前に学生への意見聴取をすること、女子教育の重要性を認識し、再発を防止することなど数箇条が盛り込まれていました。
廃止を認めるにあたり27箇条にわたる協約が成立しました。廃止反対運動は12月初旬には終息しましたが、協約に関する交渉は年度末まで続いていたといい、「長い長い半年だった」と関係者は回想しています。
最終的に「合対委」(短大、大学両学生の合同対策委員会の略称か)では、この廃止反対運動が「敗北的闘争に終わった」のは、①時期的なハンディキャップがあった(短大は実習、大学は大学祭と重なり学生にとって不利な時期だった)②天大の体制のととのうのが遅かった③全学生の団結力が足らなかった④闘争についての未経験 の4点が根本的な原因だったと分析しています。
こうして1959(昭和34)年3月に天理女子短期大学部は廃止となりました。

学生生活

短大の学生生活や雰囲気はどのようなものだったのでしょうか。以下、卒業生や教授の思い出です。

[保育科1952年卒業 富永(旧姓 佐津川)智氏(2012年7月10日の記録より)]

黒門から南へまっすぐ川を越えて、上に行くと短期大学の門があった。正面本館の一階に事務室があり、二階は教室。渡り廊下を通っていくとプレハブ一階建てのプレハブ教室があった。
先生方と共に、学生も楽しい学生生活をしたい、ということから色々努力し、一回生の少人数も二回生を迎えてから賑やかになり、休み時間は一部屋に集まり、ピアノに合わせて歌ったり、先生方と卓球をしたりホークダンスをしたり、又、バザーもしました。保育科の人形劇も人形を作る所からやり、先生方も裏方で活躍して下さいました。生活科はお料理をして、大変、皆さんに喜んで頂きました。まだまだ食糧難であった頃でしたが先生方も学生も一緒になって、学校の教材や、設備の少しでもお役に立てばと、開催したバザーは、今でも思い出話の一つです。

1951年12月頃撮影、昼休みや放課後には先生方とフォークダンスや卓球をしたり、ピアノに合わせて歌ったりして楽しい時間を過ごした(富永(旧姓 佐津川)智氏提供)

[短大保育科1958年卒業生 『みずのわ』創刊号1956年「三ヶ月の寮生活」より]

本校に入学して早や三ヶ月余〈中略〉全国各地より集まった友達、話せば話すほど奇妙な風俗習慣、環境がなした人間性格等々、〈中略〉狭い国土にも各種独特な味わいがある。と言うものの、私にも悩みの種はある。その最初は“言葉”であった。自分は東北人であるため、特に関西弁、いわば、京都なまりに大阪なまり、それに混血語の大和なまりが大敵だった。この悩みは中寮に入寮してますます高まった。〈中略〉寮と言えばなおさらのエピソードがある。あこがれと、あわい夢にまで見た、鉄筋建てなくとも、大玄関のそなわっている、古い都大和に居並ぶ、大旅館なみを想像していた。がそれが大きいはずの看板が小さく「天理学寮中寮」の文字を保ち、大きいはずの玄関が、我が眼を二度も三度も大きく見開いてみても大きくならなかったのである。完全にノックアウトされた型だった。机、本箱達で埋まった六畳部屋にまだ三人の人間を横におしこうもとするのだから、頭や身体のおきどころに悩むのも無理からぬ事である。〈中略〉始めは寮の狭さに伸々と深呼吸出来る事なく、耐えかねて先が案じられたものの「住ば都なり」の如く今では狭い乍ら楽しい我が家になった。

天理短期大学機関誌部発行の『みずのわ』。2号までしか刊行されなかった

[堤廼夫教授(1951年10月天理大学に助教授として着任)「二十七年をふりかえって」より]

短大の授業は大体鑵子山校舎で保育科や生活科と同じ校舎で行なわれ、実技は、屋内の種目は杣之内の体育館を使用し、陸上競技、ラグビーなどは体育館東側の陸上競技場、弓道は杣之内の弓道場でそれぞれ行なわれた。
柔道は当初耀子山校舎の南側の一教室で行なわれていたが、その後現在天理高校の第二柔道場になっている旧本館南の道場で稽古が出来るようになった。
当時の学生は実に個性的で実に意欲的であった。勿論年令的には結婚して家庭をもっていた学生から高卒であどけない顔をした学生まで幅はあったが人の面倒もよくみ、体育科や生活科の学生との交流もひんぱんに行なわれ、愉快な学生が多かった。

短大バレーボール部か。

[久保田正躬教授(1954年3月~短期大学保健体育科に助手として着任、天理大学名誉教授)2020年11月20日インタビューより]

当時、戦後に子供もぼちぼち増えてきていて、先生が足りなかった。それで短大の学生さんたちも中学校の免許証まではとれた。教員採用試験が100%で、全員が先生としてぴしゃっとおさまった。
短大のときは教員と学生が家族的な感じで、親しく話しをしたり一緒に飲んだりした、そんな記憶がある。当時の卒業生は皆教員になって、よく自分をたずねてきた。

体育館での体操競技

写真でみる短大生活の様々な場面

第1回保育科入学生と音楽の和田康子先生 1950年4月撮影

第1回卒業生 1952年3月

1950年第1回バザー

(富永(旧姓 佐津川)智氏提供)
(富永(旧姓 佐津川)智氏提供)

1951年11月 談山神社へのピクニック

1955年5月3日 奈良公園へ新入生歓迎ピクニック

各教室 1955年頃

化学実験室か(集成部史料掛所蔵)
音楽教室(集成部史料掛所蔵)
衣服実習室(ミシン室)か(集成部史料掛所蔵)

参考資料

・「新体育」8月号第27巻第8号 1957年 新体育社
・堤廼夫「二十七年をふりかえって」『天理大学学報』29巻6号 1978年
・山本義泰「天理柔道が関西柔道に与えた影響」『天理大学学報』58巻3号 2007年
・『天理水泳史』天理水泳史編纂委員会 2000年
・『天理柔道史』天理柔道会 1977年
・『天理大学五十年誌』天理大学五十年誌編纂委員会編 1975
・「天理時報」1023号1950年5月7日、1031号1950年7月2日、1021号1950年4月23日、1959年12月6日
・昭和25年度~32年度 教授会議録
・「朝日新聞奈良版」1957年11月14日、11月19日
・「一、天理短期大学外国語科廃止並びに図書館科及び保健体育科増設要項 二、教員組織」天理短期大学
・「天理大学新聞」10号昭和32年11月20日、11号12月19日 天理大学新聞部発行
・天理短期大学学生活動アルバム1


(年史編纂室 吉村綾子)

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