毎年秋におこなわれる天理大学祭において、学科ごとの発表があり、その中で外国語を学ぶ学科では、外国語劇を披露します。
この外国語劇は本学の前身となる天理外国語学校時代から学生によっておこなわれてきた本学伝統行事のひとつといえます。中断した時期などもありましたが、現在まで継承されてきました。
語学校内大会
本学の外国語劇は、「語劇」または「語学劇」、大学以後は学科ごとの劇という意味で「学科劇」など、様々な呼称があります。
では、第1回の外国語劇はいつ行われたのでしょうか。
天理外国語学校創立10周年に刊行された『開校十年誌』の「語学劇大会」には、「昭和四年一月二十六日春季大祭を機として学芸部、講演部合同の主催のもとに第一回語学講演、語学劇大会を元道場に開き、一般の好評を受けました」とあり、第2回目は1929(昭和4)年10月25日、第3回目は1930(昭和5)年10月25日であるとしています。また『天理大学五十年誌』にも同様の記載があります。
しかし、当時の記録である「昭和四年 天理外国語学校日誌」をみると
1929年1月
26日、午後一時より元道場ニ於て文芸・講演両部主催ニて語学校内大会を開催せり
27日、午後一時より天理教館に於て講演部主催の講演大会あり
とあることから、「語学劇大会」ではなく「語学校内大会」が開催され、日程も26日に講演と語学劇が同時に元道場にて開催されたのではなく、別の日にそれぞれの場所で開催されたことがわかります。
さらに『開校十年誌』には「一般の好評を受けた」とありますが、当時の書類には、「本会開催ノ目的ハ研究語学ノ練習並ニ各国風俗習慣の紹介ナレドモ演劇多ク且ツ練習時間僅少ナリシ為遺憾ナガラ今回ハ公開セザルコトトセリ」(昭和三年度「文書往復綴」)とあり、一般には公開されず、校内での大会だったことがわかります。また語学校内大会のプログラムには、教員による講話や生徒によるスピーチも含まれており、語劇だけの大会ではありませんでした。
また、第3回目は1930(昭和5)年であると『開校十年誌』にはありますが、公開された語劇の回数で数えると、これは第2回で、1932(昭和7)年におこなわれた語劇が第3回となります。実際、当時のプログラムにも「第3回外国語劇大会」と記されています。
このように過去の年誌に記載された本学語劇の始まりには、少し事実とは異なる点があることがわかります。
ちなみに、学生による外国語劇はいつからおこなわれていたのでしょうか。
1888(明治21)年に東京高等商業学校に英語会が組織され、年1回開催された英語大会にてスピーチや英語劇が発表されたそうです。
東京外国語学校においては、1900(明治33)年におこなわれた講演会にて、外国語の朗読、演説、演劇がおこなわれたとされます。当時、この講演会には外国公使や公爵・侯爵などの著名人が来賓として集まり、新聞にも予告・批評が掲載されるなど、一般にも向けた注目すべき娯楽であったといいます。
また、1922(大正11)年に開校した大阪外国語学校においては、1937(昭和12)年に第1回目の語学大会が開催されますが、これも地方巡回講演における外国語スピーチを契機として、東京外語のような語劇を目指して開催されたといいます。
天理外語の語学校内大会の内容をみても、講演会の中のプログラムとして語劇が組み込まれており、古くから外国語劇を公開していた東京外語を参考にしていた点があったのかもしれません。
語学校内大会の劇のプログラム(講話などは省略)
・女子学院北京語部1年 寄宿舎の一日(一幕一場)
・北京語部1年 華人地場に帰る(一幕)
・馬来語部1年 夫婦(一幕一場)
・馬来語部1、2年 永久の恋人(一幕)
・広東語部1、2年 大夢誰先覚(二幕二場)
・女子学院北京語部1年 訪問(一幕)
・朝鮮語部1、2年 公園内の社会相(一幕一場)
・英語部1年 彼女は此方に彼女は彼方に(一幕)
・北京語部1年 桃太郎の鬼征伐(三幕三場)
・女子学院北京語部1年 模擬教室(一幕)
・北京語部2年 申斥僕役(一幕)
・西語部1年 悲恋(一幕七場)
写真に残る北京語部の語劇
では、公開はされなかったものの1929(昭和4)年1月26日の学内における語学校校内大会が最初の語劇だったかというと、それも断定はできません。
1928(昭和3)年1月3日「発屁会出演支那劇「華街雑観」北京語部第一学年生」と書かれた写真があり、それぞれ衣装を身につけた学生たちが、寄宿舎(のちの杣之内ふるさと寮本館)の2階とみられる場所で撮影しています。これについて書かれた資料が無いため詳細はわかりませんが、北京語部第一学年による支那語劇であるとみられ、先の語学校校内大会より1年前には語劇がおこなわれていたといえます。
また、1930(昭和5)年1月に発行された『崑崙』創刊号に、「これまでも校内にては数回語劇会を催したこともあった」とあり、開催規模の大きさに差はあるかもしれませんが、幾度か校内にて語劇がおこなわれたと記載されており、第1回目がいつおこなわれたのか、現在の調査では断定できません。
公開公演
一方で、学外に向けて公開した語劇については、1929(昭和4)年10月25日の公演が第1回目であることは明確です。
この語劇は、天理教の秋季大祭に合わせて開催されました。その様子が『みちのとも』(1929年11月5日)に掲載されています。
外語主催の第一回外国語劇大会が盛会裡に幕を下したのは午後も九時半であった。雨は相不変ず降りしきってゐた。
私には其の言葉は全然わからない。
然し舞台に立ってゐる人々の真剣そのものな態度から言ひ知れぬ味を知り得た。
中幕に中山校長が挨拶をせられたが、其の時の話は、「今回此の外国語劇を行った理由は一に語学の熟達を目的としたものであります。勿論語学を修得するには他にも色々と道もありますが矢張り自分が其の国の風俗、習慣等に浸って、直接異人と接するのが最上の方法なのであります。然しこれは言ひ易くして行ひ難き事でありますから、此の外国語劇を選んだのであります。そして語学修得の上から、なる可く多人数の出演し得る、セリフの多い、—これはやる者にとっては非常なる苦痛ではありますが—ものを選んだのであります。女になったものは女として、爺になったものは爺として、自分が其の人になった積りであるから、其の言葉は単に口の上のものでなく、心の底からのものであります。故に他の道では得られない様な効果を収め得るのであります。尚今回に於きましては準備万端な皆生徒自からが、何等人の力を借らずしてやったものでありますから、此の邊をよく了せられ、我々の意のある所を汲み取られて観て頂きたいのであります」大要右の様なものであった。前にも述べた如く私は言葉は分らなかったが、その真剣に引き込まれて私も又此の劇の中の一人として泣きもし笑ひもした。
私は此の真剣一條を持って学ばれてゐる外語生を祝福する。
校長の挨拶の内容からわかるように、外国語劇を公演することになったのは、語劇の練習、発表を通して学生の語学力を向上させるという目的があったことがわかります。
また、創立よりまだ4年の歳月しか経っていない外語にとっては、自分たちの存在と、海外布教を目指して語学を学んでいるという学生の意欲を教内外に向けてアピールする絶好の機会であったともいえます。
劇は各語部に分かれて、それぞれの言語で演じられました。
・朝鮮語部 父帰る(菊池寛)
・支那語第一部北京語 鴻門之会
・支那語第二部広東語 俠女憐貧
・露語部 どん底中の一幕(ゴルキー)
・馬来語部 霊に生きる
・西語部 サラメヤ市長(カルデロン)
・英語部 ヴェニスの商人(シェークスピヤ)
・女子学院支那語第一部 琵琶記
公演時間は午後1時から始まり午後9時半までかかったとあり、1語部約1時間弱の上演時間だったと考えられます。費用は300円でした。
この公演にあたり、諸興行取締規則に則り、学校は興行願を丹波市警察署に提出し、また会場となる天理教館の借用書には、劇場に充てるべき相当の場所がないため、天理教館を借用したい旨を記しています。つまり、これは単なる学生による発表劇ではなく、一般大衆の観劇を目的とした演劇であったことがわかります。
また、公演日の約4ヶ月前にあたる6月15日には、10月の公演にむけた試演会を学内にておこなっています。このときは、校内の元武道場を劇場とするため、大工に依頼して舞台をこしらえています。
こうして数ヶ月前から準備を重ね演じた初めての公開語劇は、いかに学生たちが熱意をもって取り組んでいたかがうかがえます。
当時は天理外国語学校は男子のみで、女子は天理女子学院として独立していましたが、授業は外語の教室で共に学んでいました。この語劇に関しても、劇はそれぞれで出演しましたが、衣装や舞台背景などは男女が協力して制作しています。
女子学院支那語第一部の2年生の学生数は7名で、6名が出演、1名が衣装制作と、全員で舞台に臨んでいます。それでも人数が足りなかったためか、唯一の3年生である今川せい氏と、英語部2年生の佐藤絹枝氏も演者として加わっています。
第2回目の公開公演
第2回目の語劇も同じく翌年の天理教秋季大祭に合わせ、1930(昭和5)年10月25日に天理教館にて開催されました。
・朝鮮語部 淋しき兄弟(二幕)
・北京語部 完璧帰趙(二幕)
・広東語部 芙容仙子(二幕)
・露語部 カメレオン(一幕)手術(一幕)
・馬来語部 神を迎えた靴屋(一幕)
・西語部 人生は夢なり(一幕)
・英語部 ハムレット(二幕)
・女子学院北京語部 霓裳羽衣之曲(二幕)
この様子について「去年は初舞台を踏んだ者も今年は既に経験を重ねてゐるから、制限ある経費の仕事として非常な苦心が見られるし殊に舞台装置一切に於てさすがに趣を練った跡がよく覗はれた。」「又帰場中の支那、朝鮮の人々がその観劇人の中に混つてゐたのも、外国劇大会には相応しい情景であった。尚こゝに特記しなければならぬことは此の大きくして且つ細い仕事が何一つのこらず生徒達の手に依つて準備され、生徒達の手に依つて整理された事である」(『みちのとも』1930年11月5日)とあります。
今回も事前に、10月16日に校内の元武道場にて試演会をおこない、それから本番となる語劇大会を開催しています。費用は校費から約300円を支出しています。
支那語部第一部の場合、昨年の出演者は2年生が主で、3年生は1名のみ、1年生も数人混じっての配役でした。このうち半数が、第2回の語劇において3年生もしくは2年生となって出演しています。そして新たな1年生も出演者に加え、語劇を引き継いでいることがわかります。
朝鮮語部金剛会が発行した『金剛』創刊号には、前回までの2度の公演をふまえて、「朝鮮語部の劇を見ぬ中は帰らぬと云はれるまでに我が語部の悲劇は有名だった」と書かれています。また観客の感情が極まり涙をこらえたすすり泣きを聞いて、「この一滴の涙を見る為めに此の涙をしぼる為めにどれ丈け苦心して来たことか、おいらの意気将に天を突く」とあり、この語劇を成功させるために、一生懸命練習した姿を想像させます。
女子学院においては、当時2年生の在学生がいなかったため、昨年の経験者である3年生と、初めての語劇を経験する1年生の支那語部全員となる7名が総出で出演しています。
また、舞台装置から衣装からすべての準備において生徒達の手によるものとあり、90年以上を経た現在においても、こうした伝統は脈々と受け継がれています。
第3回目の公開公演
第3回目は、例年にならい1931(昭和6)年10月の天理教秋季大祭に合わせて開催予定でしたが変更され、天理教春季大祭がおこなわれた1932(昭和7)年1月25日に天理教館にて開催されました。費用は例年と同じく約300円でした。
・馬来語 ジャバの月
・北京語部 虞美人草
・西語部 人生は夢なり
・広東語部 何が彼をそうさせたか
・英語部 郭公鳥
・朝鮮語部 呪はれた運命
・露語部 検察官
・女子学院 孟母断機
「各語部によって表現された各国の人情風俗には、観劇者の心に汲めども尽きぬ外国気分を味はしめた点大成功だった」と「天理時報」(昭和7年1月28日)が報じています。
しかし、このとき支那語第二部(広東語)と馬来語は2年生しか在校生がおらず、両語部ともに5名以下という少ない生徒数でした。
第3回目の特徴は、北京語部(支那語部第一部)、広東語部(支那語部第二部)、朝鮮語部、女子学院の各語劇の原作者が外語の教授で、馬来語においては、2年生全員で4名しかいなかったにもかかわらず、学生である宮武正道氏が原作者となっています。
創立10周年記念の催し物
次の開催は、創立10周年記念の催しとして、1935(昭和10)年4月25日に校内の武道場(現天理高校第二柔道場)でおこなわれた語劇でした。前回の1932年1月の開催から2年間は語劇が開催されることはなく、なぜ開催されなかったのかはわかりません。
・西語部 或る晴れた夜(一幕六場)
・広東語部 神々の戯れ(二幕三場)
・馬来語部 幸福の住む処(二幕三場)
・朝鮮語部 心の渦巻(二幕)
・北京語部 敗子回頭「泥濘」(二幕)
・露語部 国境の町(二幕)
・英語部 栄光の道(一幕三場)
開催されなかった明確な理由はわかりませんが、1933(昭和8)年には、支那語第二部(広東語)の学生が1年生しかおらず、また馬来語部および西語部においては3年生がいませんでした。また、翌1934年は、馬来語部、西語部の1年生がおらず、支那語第二部(広東語)においては2年生しかいないという状況にあり、語部により人数の確保が難しいこと、またすでに経験者がすべて卒業してしまったことなども理由にあったかもしれません。
しかし、1935(昭和10)年の開催時も支那語第二部(広東語)は3年生のみ、馬来語部と西語部は3年生と1年生のみ、露語部は1年生がいない状態でした。
それでも、やはり10年という節目に華を添える意味で、語劇が開催されたのかもしれません。
このときの語劇には校長賞の授与があり、1等が朝鮮語部、2等が北京語部、3等が広東語部と馬来語部でした。これまでは女子学院の語劇も演じられていましたが、この年のプログラムには書かれていません。
これまでの公演と異なり、天理教の布教や信仰に関係する内容を題材とした劇を演じている語部が多いことも、この年の特徴です。
広東語部は、天保9年10月26日、教祖天啓1時間前という時代背景で、場所は支那の天上界を舞台としています。朝鮮語部は、朝鮮の一寒村における天理教会での出来事を題材に、北京語部も主人公の信仰を題材に、英語部も信仰心の厚い青年が渡米した先での出来事を舞台にしています。
馬来語部は、「テーマは貧弱であったが観衆の感情をうまく捉らへた点、異様な服装、演出者各々の技巧等に加へてあらゆる点に於ける舞台効果を大ならしめた」と『睨南』2号に綴っています。また、この舞台の背景は、宮武氏が紹介した画家による南洋独特の草木を描いたものを用いており、本格的な背景に仕上がっていたのかもしれません。
その後、1936(昭和11)年から終戦に至るまで、外国語学校が語劇をおこなった記録は見当たりません。
一方、女子学院においては、1936(昭和11)年1月26日の天理教教祖五十年祭における催し物として「お話と劇の会」を開催し、その中で国語部が喜劇「能因法師」を、支那語部が語劇「終身大事」を、家庭科部が教劇「みちのはじめ」を披露しています。これ以後は、女子学院においても語劇が開催された記録はみつかっていません。
戦後に語劇が開催されたとみられる最初の記録は、天理語学専門学校(1944年に外国語学校から改称)ではなく、女子語学専門学校(1944年に女子専門学校から改称)による語劇でした。
その様子から現在に至るまでは、次のコラム「語劇そして、学科劇」にてご紹介します。
参考資料
・天理外国語学校文芸部『校友会誌』1929年3月15日
・『開校十年誌』山澤為次編 1935年
・東京外国語大学WordPressサービス「外語祭の歴史」(シリーズ企画「99回を迎えた外語祭」)TUFS Featured/TUFS Today 2021.11.19
・相沢正美「外語時代を顧みて—続編—」『扉』第8号 広島市上流川町朝日麦酒株式会社広島支店内大阪外国語学校大学同窓会城島支部発行 1963年7月1日
・天理教道友社『みちのとも』548号(1929年11月5日)/569号(1930年11月5日)
・天理教道友社「天理時報」 1932年1月28日
・天理大学外国語学科『天理大学外国語学科フォーラム講演会抄録(2015~2018)』2018年3月22日
(年史編纂室 吉村綾子)
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