空からみるキャンパスの変遷【天理大学百年史コラム(24)】 2023.02.02 天理大学百年史

1925(大正14)年の天理外国語学校の創立、そして翌年の校舎(現1号棟)の建設、そこから現在のキャンパスが形成されるまでの90年以上のうつりかわりを、機上から撮影された航空写真を使って、空から眺めていきます。

校舎が建つ以前

学校の様子がわかる1932(昭和7)年以前の航空写真はみつかっていないため、初期の頃の様子は地上より撮影した写真でご紹介します。

1925(大正14)年4月15日、天理外国語学校第1回入学式が挙行されましたが、校舎はまだ建設されていなかったため、天理中学校内を仮校舎として出発しました。
同年11月に校地となる敷地を買収し、翌1926(大正15)年8月31日に校舎(現1号棟)が完成します。
もともと現1号棟のあたりは建物等や道すらなく、雑木や田に囲まれた小高い丘であったといいます。

1925(大正14)年末頃

『道之友』1926年1月5日号より

これから校舎を建てるために、一帯の整地として土持ちひのきしんがおこなわれています。
唯一、校舎が建つ前の敷地の様子がわかる写真です。
おそらく、西山古墳の東辺から北を向いて撮影していると思われ、写真右奥のあたりに1号棟が建てられたと考えられます。

奈良県立図書情報館まほろぼライブラリー 奈良県庁文書「昭和三年 社寺兵事課 古墳墓一件」より

これは1928(昭和3)年3月に作られた校内の敷地平面図の上に、古墳として認識されている箇所を書き足した図面です。
この敷地の境界は現在の大学の敷地とは異なりますが、校舎の位置は変わっていません。中央やや右に書かれている「校舎」が現1号棟です。
大小様々な丸い山のように描かれているものが古墳を指していますが、当時の時点ですでに消滅している古墳が多数あります。
校舎の南西方面(運動場の左隣)に位置する大きな古墳が、現存する西山古墳です。
校舎が建つ頃には田園風景が広がる一帯でしたが、このように古くはいくつもの古墳が存在していた場所でした。

校舎とその周囲の建設

校舎のすぐ南側に寄宿舎(のちの杣之内ふるさと寮)が建設されます。寄宿舎は、校舎の建設とほぼ同時期に建設が進められ、1927(昭和2)年4月29日に開舎式を迎えます。
1929(昭和4)年には寄宿舎の西隣に武道場ができ、1930(昭和5)年には、校舎の北東に附属天理図書館が建設されます。
さらに、1932(昭和7)年には弓道場と厩舎が完成し、以上すべての建物(一部も含む)が現存しています。

1926(大正15)年

(集成部史料掛所蔵)

校舎(現1号棟)の建設中の写真です。
1926年8月31日に竣成しました。近世式の「スパニッシュ」の手法を加味した建築様式で、設計は武田五一氏と岩崎平太郎氏、施工は大阪橋本組がおこないました。
現在では、県内に残る最古の鉄筋コンクリート建築です。

1928(昭和3)年3月25日

1928(昭和3)年3月25日(年史編纂室収蔵)
昭和10(1935)年頃(天理高校所蔵)

1枚は真北から、もう1枚は北西あたりから校舎を撮影した写真です。
1928(昭和3)年3月25日、初めての卒業式を迎えた当日の写真と昭和10年頃に撮影された写真で、2枚を見比べると校舎の北東(写真左側)にある附属天理図書館が建設される前と後がよくわかります。
1928年の写真左側に写る白い屋根のようなものは、卒業式の祝賀式をおこなうためのテントの屋根です。ちょうど、このテントのすぐ東側あたりに附属天理図書館が建設され、1930(昭和5)年10月18日に開館式が挙行されました。
図書館が建設されるまでは、校舎3階の一部が図書館として使用されていました。

校地一帯を整備

1932(昭和7)年11月11日の陸軍特別大演習にともない、天理市内及び校舎周辺では数ヶ月かけて大規模な工事がおこなわれ、見違えるように美しくなりました。
雑然としていた敷地内を整備し、入り口には天理外国語学校へ入る人々を出迎える門柱を建て、周囲に芝生や樹木を植え、道を舗装し、電線を埋没し景観を一新させました。
この様子については、過去のコラム「絵はがきから探る」でも紹介しています。

1932(昭和7)年頃

創立30周年記念写真集『天理大学と同短期大学』より
『開校十年誌』より

2枚の写真はともに1932(昭和7)年頃に撮影されたものです。これらが本学を写した航空写真の中でいちばん古い写真です。

1935(昭和10年)頃

(集成部史料掛所蔵)

写真左側が北方向です。
現在では、天理教教会本部から南にまっすぐ通る真南通りがありますが、当時は学校を出ると鑵子山の麓をまわりこむような道でした。
現天理高校の校舎はまだありませんが、おそらく直後には校舎建設の工事が開始されていると思われます。天理高校の校舎は1937(昭和12)年に完成します。

1946(昭和21)年

地図・空中写真閲覧サービス(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)よりダウンロード。コース番号M275-A-8/写真番号71。写真にはトリミング加工と文字入れを施しています

終戦から約1年後の写真です。
朝鮮館は1944(昭和19)年に軍の接収地となり取り壊されました。

天理大学開学[杣之内キャンパス]

ここからは、1949(昭和24)年に開学した天理大学以後の写真をご紹介します。

1954(昭和29)年・1955(昭和30)年

(集成部史料掛所蔵)
(集成部史料掛所蔵)

2枚の写真は2年続けて撮影されたものです。
以前の写真と比べると、建物などが増えていることがわかります。1号棟の北側には野球場やテニスコートがつくられ、天理プールや杣之内体育館(天理高校校舎南側、現在なし)が建設されています。
この野球場のあたりが現在の本館(研究棟)が建っている場所です。鑵子山校舎のあたりは、現在天理参考館が入るおやさとやかたが建っています。

1957(昭和32)年

『天理短期大学1957』(要覧)より
『天理短期大学1957』(要覧)より

こちらの2枚は、先の2枚とほぼ同時期に撮影されたものですが、はっきり建物の様子がわかります。 
右側の写真は、天理短期大学及び天理大学の一部の校舎として使用されていた鑵子山校舎です。
この鑵子山校舎は時代とともに、天理教校や旧制天理中学校など、天理教管内の学校が入れ替わり使用していました。

1963(昭和38)年

(年史編纂室収蔵)
(集成部史料掛所蔵)

2枚は同年の撮影と思われますが、図書館周辺の様子から、1枚目は増築工事中で、2枚目は増築工事が完了してからの写真と思われます。
図書館の増築に加え、柔道場(のち天理高校第2柔道場)も北側にもう1棟建ち大きく増床しています。1号棟北西には2棟からなる杣之内北校舎が建っています。寮にも新しい鉄筋コンクリート建ての北寮が増えています。
創設者記念館「若江の家」や黎明館が大阪から移築され、敷地内に建てられています。
また、野球場の北側には天理教境内敷地内へと続く新しい道が造られています。 

1971(昭和46)年

(年史編纂室収蔵)

南棟校舎やいちれつ会館(旧奈良県庁舎を移築、現在はなし)、体育館(現杣之内第2体育館)ができています。
現在の杣之内第一体育館は、いちれつ会館があったあたりに建っています。
鑵子山校舎があった部分は大きく削られ、天理教教会本部から南へまっすぐ続く真南通りができています。

1979(昭和54)年頃

1979年大学要覧より

南棟南側の東西にのびる道路は野球場の形に添っていましたが、その道がまっすぐに造りかえられ、野球場が欠けているのがわかります。

1989(平成1)年頃

1990年大学要覧より

若江の家の南にあった黎明館が1984年に現在の位置(1号棟東)に移され、その場所には新たな道路が通っています。
図書館や寮の東側にあった2つの池のうち、北側の池が埋め立てられていますが、のちに南側も埋め立てられ現在はグラウンドになっています。
杣之内ふるさと寮の南から石上神宮の方面へ続く県道51号線や、その道路沿いに建つ合掌造りの家など、周囲の変化がよくわかります。

1993(平成5)年頃

本館(研究棟)、2号棟、杣之内第1体育館、心光館といった新しい校舎などが建ち、大きく様変わりしています。

2005(平成17)年

『飛翔 天理大学創立90周年記念天理大学ふるさと会写真集』より

1号棟と杣之内第1体育館の間に9号棟(ふるさと会館)が建ち、このキャンパスの形がほぼ変わらず現在まで続いています。

2013(平成25)年

(広報・社会連携課所蔵)

このようにして長い年月をかけて、現在のキャンパスへと移り変わっていきました。

[田井庄キャンパス](体育学部)

1954(昭和29)年

(集成部史料掛所蔵)

1955(昭和30)年、体育学部が増設され、天理プールのスタンド下が体育学部の教室として使用されました。 

1971(昭和46)年

(年史編纂室収蔵)

1964(昭和39)年4月から田井庄キャンパスで授業がおこなわれるようになり、その後体育館や本館などが新築されますが、まだ木造校舎が残っているのがわかります。

1974(昭和49)年

(年史編纂室収蔵)

敷地内の北東(写真右端)に鉄筋5階建ての田井庄ふるさと寮が新しくできています。1973年にはグラウンドが西側に拡張されます。

1978(昭和53)年

1979年大学要覧より

新しい武道館が完成間近の頃です。2号館の西側にあった小体育館(現第3体育館)は、北端に移動しています。
西側(写真上部)の少し離れた位置に平等坊グラウンドがみえています。

1989(平成1)年頃

1990年大学要覧より

1986(昭和61)年には全天候トラック競技場が完成します

2005(平成17)年

(広報・社会連携課所蔵)

東西114メートル、南北51メートルの大規模な総合体育館ができています。東側のメインアリーナ、体操場に加え、西側に温水プールやトレーニング場が設置されています。

キャンパス外のグラウンド

親里競技場 1987(昭和62)年頃

親里競技場は天理教教祖百年祭を記念して1984(昭和59)年に竣工しました。
競技場内にはホッケー場2面、ラグビー場、野球場があり、本学ホッケー部が使用するほか、ホッケーの国際大会などにも利用されています。
北(写真上部)には杣之内キャンパスがみえています。昨年3月には幾坂池の北側に、本学と連携協定を締結している「なら歴史芸術文化村」ができています。

白川グラウンド 1987(昭和62)年頃

この頃は、まだグラウンドは整備されていません。
当初は、天理教教祖百年祭にむけて駐車場として設置され、その後多目的グラウンドが整備されます。2004(平成16)年から北側にある野球場、ラグビー場、サッカー場を本学専用のグラウンドとして使用しています。


参考資料

・天理大学附属おやさと研究所編『天理教事典』第3版 2018
・奈良県庁文書「昭和三年 社寺兵事課 古墳墓一件」奈良県立図書情報館まほろぼライブラリー(https://www.library.pref.nara.jp/)
・地図・空中写真閲覧サービス(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)コース番号M275-A-8/写真番号71
・天理大学五十年誌編纂委員会編『天理大学五十年誌』1975
・天理教道友社『道之友』 1926年1月5日号


(年史編纂室 吉村綾子)

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