選科日本語科【天理大学百年史コラム(25)】 2023.04.13 天理大学百年史

本学には1958(昭和33)年から留学生を対象とした選科日本語科、その後継の別科日本語課程が設置されていました。
選科日本語科は、当初は完全な環境が整っていない中での出発となりましたが、次第に教員や施設も充実し、最終的に合計645名の留学生を迎え入れ、429名の修了生が世界中に帰っていきました。その後も、改組を経て現在は国際学部地域文化学科の日本研究コースでたくさんの留学生が学んでいます。

天理外国語学校に設置された別科特修科

選科日本語科は1958(昭和33)年に開設されますが、外国人留学生を対象とした日本語教育は、前身である天理外国語学校の時代まで遡ります。

1936(昭和11)年4月、天理外国語学校は留学生に日本語を教授するため、別科として特修科を設置します。天理時報(1936年3月1日)によると、それまでに「満州、支那、南北米あたりから日本語を習得に来る留学生があり、種々不便を感じ」ていた上、今年は奉天にある天理学院等から3名の入学生、その他の入学志望者もあり、設置を申請することになったという経緯が記されています。
当初は、専攻科という名称で設置する予定でしたが、文部省に申請する際に名称が変更され、特修科という名称になります。学則第44条(1936年)では、「日本語ヲ解セサル日本人又ハ外国人ニ対シテ日本語、天理教教義並高等ナル学術ヲ教授スルタメ別科トシテ特修科ヲ置ク」と定めています。
学則では、改正を経ながら1947(昭和22)年の天理語学専門学校の学則まで特修科を設けていますが、実際の入学者の記録としては1936年及び1937年、1942(昭和17)年度分のみで、卒業生は1939年度の7名と1940年度の4名のみで、どのような変遷をたどっていたかは不明です。

本学の留学生を対象とした日本語科の変遷
1936年頃。特修科生(『天理大学五十年誌』より)
特修科学籍簿

さて、このように日本語教授をおこなう別科を設置した背景には、天理教の海外布教の広がりが考えられます。
森井敏晴著『天理教の海外伝道』収録の「国内教会数・国内ようぼく数・海外教会数・海外布教所数・海外ようぼく数(1)」によると、天理外国語学校が創設された1925(大正14)年、海外に設置された天理教教会数は147でしたが、10年後には409に増えています。また、「ようぼく」の海外人数は1925年は1585人ですが、1935年には7730人まで増加しています。
こうした海外布教の進展にともない、1934(昭和9)年にはアメリカ伝道庁、台湾伝道庁が設置され、また満州天理村(当時満州と呼称された中国東北地方ハルビン郊外に開拓した村の総称)が建設されます。
このように海外における教会が増加し、天理教教義をおぢばで学びたいと希望する信者が海外から留学することになり、同年に、天理教校(天理教の教師養成学校)よのもと会(校友会)専修科に日本語部が設置されます。この日本語部では、こうした留学生を受け入れて、日本語と天理教教理を講習することになりました。天理外国語学校では、この2年後に特修科が設置されることになります。

「天理外国語学校特修科(日語部)生徒募集」
規程「第十章 特修科」

選科日本語科の創設

1949(昭和24)年に天理大学が発足し、1952(昭和27)年に選科生の制度が置かれます。
学則第39条に「諸外国又は日本語について実際的な短期教育を行う」とあり、修業年限は1年で、朝鮮語、中国語、英語、ドイツ語、フランス語、ロシヤ語、イスパニヤ語、ポルトガル語、インドネシヤ語、日本語の10語科が設置されました。

1951(昭和26)年に天理教二代真柱が戦後初の海外巡教をおこない、翌年に天理教海外伝道部が再発足します。これを契機として、1956(昭和31)年の天理教教祖70年祭の数年前から19名の留学生がきました。彼らは、天理教の信仰と教育を学ぶために留学しましたが、2世として海外で生まれ育ったため日本語が話せません。大学では1952年に選科制度は開設されていましたが、留学生を受け入れる体制ではなかったことから、授業は海外伝道部、その後大学、また海外伝道部の先生が受け持つといった不安定な状態が続きました。住居に関しても、留学生寮が整っていなかったため、各人系統教会の詰所から通学し、その後はブラジル寮、1953(昭和28)年とその翌年は教員宅に留学生が寄宿しました。

その後、大学と一れつ会(教内の扶育事業団体)、天理教海外伝道部で会議をもち、生活面は海外伝道部、学資は一れつ会、学校は学校本部が担当することが決まり、1958(昭和33)年9月に留学生が入寮する海外学生寮を設置し、同年10月に選科日本語科に初めての入学生を受け入れます。この時が、天理大学選科日本語科の創設として過去の年史には記録されています。
当初、毎年4月と10月の2回の入学を予定していましたが、開設から2年は4月の入学者がいなかったため、年に2回の入学となったのは1961(昭和36)年からでした。
修業年限は1年で、6ヶ月ごとに第一期、第二期と分けられ、希望者には第三期(6ヶ月)を延長することができると規程にありますが、修了式は入学から1年半後におこなわれました。

第1回選科日本語科入学式(『天理大学選科日本語科十周年誌』より)
1959年9月16日 法隆寺方面へのサイクリング
1958年頃 教室
1958年頃 授業を受ける生徒

日本語科発行の新聞「ふるさと」

1960(昭和35)年4月9日に第1回修了式がおこなわれ、その半年後の11月26日に「ふるさと」が創刊されました。入学生や修了生、先生方や学校生活の紹介、近況報告などが主な内容で、日本語科修了者と学校を結ぶかけはしとして刊行されました。確認できている最終号は1993(平成5)年の97号で、33年間発行されました。

発刊状況をみてみると、創刊号から1961(昭和36)年11月20日発行の12号までは、ほぼ毎月発行されています。その後は少し不定期で発行され、1964(昭和39)年5月30日の21号から1968(昭和43)年4月1日の67号まで再び毎月発行されています。68号の所在は不明で、発行されたかどうかもわかりません。それから、約半年の期間を経て同年11月1日69号から、再び毎月発行が続きます。それまで編集、企画の大部分を先生がおこなっていたようですが、69号からは生徒も共におこなうことになったと記されています。1969(昭和44)年7月1日77号からは数ヶ月に1回の間隔で発行されます。
その後、1973(昭和48)年12月1日の次号は、1980(昭和55)年4月18日の発行となり、7年間の空白があり、両誌とも号数が85号と印字されています。おそらく休刊が長すぎたため、復刊する際に号数を間違えたのかもしれません。復刊にあたっては「一昨年選科創立二十周年記念事業として海外での同窓会結成が企画されましたが、その結成された各国同窓会を結ぶ」(「ふるさと」85号)ためと記されています。それからは、1年に1回程度の間隔で発行され、1989年8月26日の94号は日本語科創立30周年記念号として冊子を作成しています。
なお、10周年を迎えた1968(昭和43)年には、記念式典が開催され『天理大学選科日本語科十周年誌』も発刊されています。

「ふるさと」では、教員や在校生、修了生などが寄稿していますが、その中で選科日本語科とは呼ばず「日本語学校」と呼んでいます。多くの学生や関係者における通称は「日本語学校」だったようです。また「日本語科選科」と表記されている場合も多々ありますが、規程は「選科日本語科」と定められています。

「ふるさと」創刊号
「ふるさと」87号。新築された別科新校舎が紹介されている。この建物は現在、情報ライブラリー本館が入る8号棟

教外からの留学生

「この日本語選科で一番特色づけられることは天理教教義にそった教育がなされておるということです。それ故、この学校では、日本語を修得するということだけに留まらず、固い、しっかりとした信仰を身につけ、あわせて、心の成人をなしとげるということにまで、その意義が拡められているのです」(「ふるさと」58号)とあるように、もともとは海外に住まう教内者の2世や3世を留学生として受け入れる機関として発足しましたが、第1回の入学生から教外からの学生も入学しました。

第1回の入学生は13名でしたが、その中で、ネパール出身のラム(Ram Krisna Verma)氏は、1958(昭和32)年の第3回アジア大会に陸上短距離選手で出場しており、母国においてバドミントンのチャンピオンでもありました。選科修了後には、本学体育学部に進学し、卒業しています。その後、ネパール人初の「ようぼく」となり、帰国後はネパールの国家公務員やスポーツ協会の役員、天理教センター内の日本語学校の教師を務めるなど、天理教そしてスポーツの世界、そして日本語教員といった幅広い分野で活躍しました。

1960年1月6日-11日 長野県菅平へ。体育移動授業としてスキー授業
節分の豆まき体験

ラム氏に続き、第2回目(1959年秋)にはホーキー(Thora E.Hawkey)氏、パディ(Elizabeth P.Henderson)氏とニューマン(John Edward Brian Newman)氏が入学しました。ホーキー氏は「ブリティッシュ・コロンビア大学で人類学を専攻・M・Aの論文を仕上げるために日本に来、当地で日本語を修得の後、今春東京大学大学院の入試をひかえている」と「ふるさと」4号で紹介されています。
ニューマン氏においては、「本職は柔道の勉強」(「ふるさと」3号)と記載されている通り、彼は柔道が第一の目的で留学しています。ここには、柔道を通したトレバー・レゲット氏と本学創設者である二代真柱との出会い、そしてニューマン氏がレゲット氏の愛弟子であるという背景がありました。
さらに第3回目(1960年秋)は、日本の造船技術を学びにきたインドラ(Indra Rawindra Kartsamita)氏。そしてリギニ(Luiz Gonzaga Righni)氏は、大阪外国語大学で日本語を学びながら、久保田正躬先生から器械体操を学ぶため天理に通っていましたが、毎日先生から学ぶために、選科日本語科へ転校しました。またアメリカ出身の土田光輝氏も「米国での日本ブームに自分も何とか日本の事を知りたいと云う事と米国にいる天理大学柔道部卒業の今村氏の紹介で柔道練習の為日本へ勉強に来た」(「ふるさと」1号)と紹介されています。同じく第4回目(1961年春)に入学したアメリカ出身の西岡博氏も土田氏の柔道仲間で、柔道を目的として留学しています。

1960年か 学習発表会
生け花の授業

さらに1961(昭和36)年秋に入学したホフマン(Wolfang Hofmann)氏は柔道を学びに、カルマン(Donaled Alexander Calman)氏は日本の近代史をテーマにオックスフォード大学へ博士論文を出すために留学しています。
このように、教内者ではない、とりわけ柔道のために留学してきた学生が多数おり、早朝や午後におこなわれる柔道の練習に力を入れると、授業への出欠や教会への参拝に対し問題が起こるようになります。これが、柔道留学以外の留学生にも影響を及ぼすため、1967(昭和42)年4月に選科日本語科二部を発足させ、ここに柔道留学生を受け入れることになりました。

二部については「創設の趣旨は、海外からおぢばに柔道を習いに来る留学生が、柔道を習得する一方、日本語の勉強をも合わせてして、日本というものを少しでも理解してもらおうというところにある」(「ふるさと」62号)とあり、「彼等の中には天理教の信者は一人も居りません。従って選科一部とは目的を異にしております」としています。二部は1969(昭和44)年3月に廃止されます。

1967年 日本語科二部生
1967年 二部生教室にて

寮生活

選科日本語科の創設とともに海外学生寮が設置されました。おやさと二号館がそれに充てられ、男女ともにこの海外学生寮で生活しました。
1963(昭和38)年、女子留学生は豊井ふるさと寮に移り、杣之内ふるさと寮の北寮に柔道部の男子が入り、それ以外の留学生はそのまま二号館の海外学生寮で過ごしました。当時の豊井ふるさと寮について、「この寮には、二十五の部屋があり、各室二人ずつ入っています(中略)娯楽室があり中には、じゅうたんが敷かれ、テレビが置いてあり、その横には、おしゃれな人のために、鏡台が置かれてあります。(中略)寮の中は色彩的に多彩で、壁はピンク、階段はブルーと色どりも美しい上に、よく掃除されています。」とあり、「寮で皆んなとくらしていると、日本の女性の、ものの考え方がわかり、又、習慣なども知ることが出来るし、日本語の会話の勉強にもなるからいいです」(「ふるさと」20号)と、日本の女子学生と同じ寮で暮らす生活について記されています。

その後、女子留学生は三島ふるさと寮にも入寮し、1967(昭和42)年当時の様子として、「寮は大きな建物で、たくさん若い女の人がいっしょに住んでいます。(中略)寮の食べ物は本当の事を言うと、余りおいしくなかったけれども、だんだん慣れて来て、今はもう大丈夫です。一日おきにお風呂に入ります。外国では皆いっしょにお風呂に入りませんので困りました。今でも、困ることは、お風呂のあついことです。(中略)日本に来る前に日本の女の人は優しくて、しずかで、お人形さんみたいだと思っていましたが、寮に入ってびっくりしました。泣いたり、笑ったりよく話します。大変元気がいいです。」(「ふるさと」54号)と記しています。


また男子留学生が入寮していた海外学生寮は「毎朝、朝寝坊の人達にマイクから私の魅力的な声で七時十五分ですよと言って起させます。そんな時、皆から、ぶつぶつ文句を言われます。この寮には色々の国から人々が来ていますので食べ物で困ります。アメリカ式ビフテキを食べたい人やら中華料理を食べたい人も居ます」(「ふるさと」54号)と、寮生活について記しています。
その後1971(昭和46)年に、海外ふるさと寮が新築され、男女ともに留学生がここに入寮しました。

おやさと二号館に入る海外学生寮。1階入り口に「海外学生寮」の文字がみえる
「ふるさと」82号に紹介された新しい海外ふるさと寮

留学生数の推移

1968(昭和43)年春までは、10名に満たないことがほとんどだった入学者も次第に増加し、1974(昭和49)年10月、定員を30名に増加させたことにより、その頃から20名以上の入学がみられるようになりました。さらに、1981(昭和56)年4月、選科日本語科は天理大学別科日本語課程へ移行し、1984(昭和59)年から定員を60名に増やし、50名以上の入学者を受け入れるようになります。(「ふるさと」94号統計表より)
一方、修了者については、修了までに天理教修養科や専修科へ移ってしまう場合なども多く、選科日本語科の入学者合計が645名であるのに対し、修了者は429名でした。
なお、別科日本語課程になってからは、修業年限は2ヶ年になり、2年生の後期に3ヶ月間、修養科へ入ることになりました。その後は、1993(平成5)年度まで別科への留学生を受け入れています。
1989年8月26日に発行された「ふるさと」94号(30周年記念号)にて大久保昭教別科長は、「現在日本国内外にある数百ヵ所にものぼる日本語履修課程のうち、我が別科日本語課程は五指に入る最上位の評価と信用を得ているとのこと」と述べており、創立から30年を経て本学における日本語教育が発展してきたことがうかがえます。

参考資料

・天理大学附属おやさと研究所編『天理教事典』第3版 天理大学出版部 2018
・天理大学80年小史編纂委員会編『天理大学80年の軌跡』天理大学出版部 2006
・岸勇一編『天理大学選科日本語科十周年誌』海外伝道部 1968
・天理大学別科日本語課程「ふるさと」94号創立30周年記念号 1989
・森井敏晴『天理教の海外伝道』善本社 2008
・「天理時報」1934年10月14日、1936年3月1日
・近藤雄二「天理スポーツ・オリンピック通信」No.38 2022年6月、No.39 2022年7月、No.40 2022年8月 体育学研究科発行


(年史編纂室 吉村綾子)

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