【「大和学」への招待 ─宇陀歴史再発見─】第3回
●2023年10月14日(土) 午後1:30
●テーマ: 宇陀地域の古代史 —奈良盆地から見た水銀朱の向こうへ続くクニ—
●講師 岩宮 隆司(歴史文化学科 非常勤講師)
内容
宇陀市域は、最初の天皇とされている神武天皇の東征伝にも登場し、古代の天皇にとって重要な地域であった。この地域の歴史が解明されれば、日本の古代国家が誕生した頃の様子を解き明かす事ができる。
そこで、先ずは、宇陀市にあった「郷」と呼ばれる平安時代の村と、この「郷」に居住していた古代氏族に関係する先行研究や史料に基づいて、「郷」の推定地とその地域の特徴を探ってみた。それによると、以下の様な点が注目される。
- 宇陀川上流の旧大宇陀町域には、郷があっても良さそうであるが無い。これは、天皇や皇族の直轄地として、禁野・薬猟の地として利用されていた事と関係していた可能性がある。
- 芳野川の流域には、郷が多い。この流域には、古墳・水銀朱の鉱山・伊勢南街道に通じる交通路などがあり、古墳時代の前期には、神武天皇の東征伝にも登場する「菟田下県」と呼ばれる直轄地が設定されていた可能性がある。
- 内牧川の流域には、浪坂郷があったと想定され、中央政府の大豪族との関係性を示す氏族がいた。この地域は、伊勢本街道に通じる交通路があり、「菟田上県」の直轄地が設定されていた可能性がある。
- 内牧川の流域には、一般の集落である浪坂郷が成立しただけでなく、王権と関係する地域性や伊勢・伊賀へと通じる交通の要衝として、「菟田上県→宇太御厩→肥伊牧→桧牧荘」と展開していった可能性がある。もしこれが妥当であれば、奈良時代前半の有力皇族であった長屋王が領有していた「宇太御厩」の成立過程や盛衰は、宇陀市の歴史にとっても重要な意味を持ってくる。
- 神武東征伝に兄猾の反乱伝承がある事(菟田上県の設置ヵ)、公(君)を名乗る氏族が多い事、古墳時代前期の前方後方墳はあるが前中後期を通して顕著な前方後円墳はない事は、相互関係にあり、宇陀市には、古墳時代の当初、奈良盆地の天皇から一定の距離をおいていた勢力がいたのかもしれない。
- 奈良盆地の東南部や東海・紀伊と関連する氏族が居住しており、宇陀市の地域社会が、これらの地域と交流や移動関係を有していた。
- 宇陀市の西部には、奈良盆地へ通じるルート上に「墨坂・男坂(忍坂ヵ)・女坂」があり、史料上も実態も、墨坂が中心であった。一方、東部には、伊勢へ通じるルート上に「石割峠・一谷峠・佐倉峠」があり、同様に、石割峠が中心であった。
次に、宇陀市に関する史料の特徴としては、「不思議な草を食べて空を飛んだり無病長寿になったりした霊異を示すものが多い事」、「奈良盆地と宇陀地域や伊勢神宮を結ぶ交通に関するものが多い事」、が注目される。この様な地域性が形成された要因の根源は、宇陀や伊勢で取れた水銀朱にあったのかもしれない。朱色の顔料は、縄文時代から古墳時代にかけて、実用性だけでなく宗教的な行為に使われる貴重な物品であり、古代人にとって霊異を感じるものであった。宇陀市に、「天皇や皇族が食べる水・野草・動植物に関係する氏族や万葉集などが多い事」や「天皇の祖先に直接関わる神武天皇や伊勢神宮に関する説話や移動などが多い事」も、全て水銀朱に引きつけて理解すると一種の整合性や仮説が見えてくる。
奈良盆地の平野部に暮らしていた人や誕生した古代国家にとって、鳥見山から音羽山が連なる山々の向こうに位置する宇陀市域は、宇陀や伊勢から水銀朱が運ばれてくる「霊異のクニ」であった。だからこそ、最初の天皇とされる神武天皇は、その様なクニの方向から奈良盆地にやって来たという東征伝が形成されて意味をなし、天皇の祖先である天照大神は、その様なクニの先にある伊勢湾の沿岸部に祀られたのかもしれない。