
《公開講座記録》【「大和学」への招待 -橿原市の歴史と文化-】第1回
●2026年10月3日(土) 午後1:30
●テーマ:「コレクターと社会 ―19世紀の谷三山蔵書―」
●講師 黒岩 康博 (歴史文化学科 教授)
内容
近世後期、特に18世紀後半から19世紀にかけて、出版事業の隆盛を背景として、書物の蓄蔵に励む蔵書家という一群の人々が、全国に登場しました。高市郡八木の学者谷三山(1802~67)もその一人ですが、彼の集書は周辺社会にどのような影響を与えたのでしょうか。三山蔵書がいかに活用されたのかを見てみましょう。
三山の蔵書については、10種の目録があり、そのうち6種を私はこれまでにリスト化しています(「谷三山旧蔵書の継承―郡山中学校蔵書録より―」、「谷三山の蔵書―漢籍目録研究序説―」)。そのうちの一つ「相在室書目」(明治12跋)には、儒書・仏書・国書を中心とした全956件の唐本・和本が載せられています。その跋文において三山門弟の吉川勉は、明治維新期に「某県令」が「志学者」に資するために蔵書の譲渡を申し入れた旨を記しています。
この時に三山旧蔵書が売却されることはありませんでしたが、門人たちはそれらの活用に賛成でした。時期は異なりますが、松江藩儒であった桃白鹿(1722~1801)は、一般藩士や藩主への講釈や会読に書経・大学などの儒書を用いました。三山の蔵書には、「西洋雑記」や「海岸防備」など藩主に時事問題を講釈する際に参照されたらしきものも見られます。門人は、これらの書がいまだ役立つものであると考えたのでしょう。
また、三山は弟子に一方的に知識を与えるのではなく、現物の書籍を通じて対等に交流しました。その相手として、最も多くの史料が残されているのが吉村信之介(1794~1865)です。田原本出身で、師より年長であった吉村は、三山に「珍書トサヘイヘバ価価ヲシマズ、一奇士ニ候」と評される蒐書家で、101点の三山宛書簡からは、「かす」「かりる」「もらう」といった、書を媒介にした師弟関係が見えてきます。
まずは「かす」。三山は、吉村へ伴蒿蹊『近世畸人伝』(1790)や、中国の戦国時代から五代末に至る編年史『資治通鑑』(司馬光撰、1084完成)を「初巻ヨリ十五冊」貸していることが、書簡から分かります。また、『大日本史』と明代の随筆『五雑俎』(1619成立)は、同門の西谷綗菴(1831~94)の貸し出し希望を取り次いでいます。西谷はのち田原本藩校教授の座に付き、『大日本史考証』などの著作を生み出す学者となりました。
次は「かりる」。書簡を見ると、三山は蒐書家であった吉村から本を借りることもあり、「厳秘録」などは、吉村から借りた後に高取藩用人の築山愛静へと貸しています。いわゆる又貸しですが、師と同じく弟子の吉村も「上田君」より借りた儒書『荀子』と地誌『大和志』(並河誠所ら撰、1736)を、三山に又貸ししています。上田淇亭(1814~65)も、西谷同様のちに高取藩校教授となります。
最後は「もらう」。吉村は、少なくとも中国南北朝時代の詩文集『文選』一帙と、清代の字書『品字箋』(1677)を「全部箱入」で三山に「差上」ています。確かに三山の蔵書リストには「唐人書入有」の『文選』が載っていますが、「差上」が完全な所有権の譲渡なのか、貸借に止まっているのかは、もう少し検討が必要かも知れません。
三山・吉村ともに大阪の書肆河内屋新次郎(河新)から多くの書籍を購入していましたが、河新から得た書物は師弟の間を行き来して、豊かな知的空間を作り上げていました。河新は、江戸前期の海外情報集『華夷変態』の写本作成や、三山著書の刊行にも関わっていたようです。
1894年、三山の全蔵書は奈良県尋常中学校(現県立郡山高等学校)校長正木直彦の依頼により同校に収められ、1924年火事により全て焼失したと言われています。しかし、明治末頃の「郡山中学校蔵書録」(奈良県立図書情報館所蔵)には、三山旧蔵の唐本がほとんど含まれていません。師弟の交流の痕跡である中国からの輸入書は、本当に全て燃えてしまったのでしょうか。捜索を続けたいと思います。