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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】関野貞—奈良の文化財を守った巨星—

第5回 ● 平成27年10月24日(土) 午後1:30
テーマ ● 関野貞—奈良の文化財を守った巨星—
講 師 ●  橋本英将 歴史文化学科准教授

内容

1.関野貞の略歴
関野貞(せきのただし)は1867年、越後国頚城郡高田にて、高田藩士関野峻節の次男として誕生した。第一高等中学校を経て1895年、帝国大学工科大学造家学科を卒業すると、翌1896年には古社寺保存計画調査嘱託に任じられ、1897年には奈良県技師となる。以後1901年に東京帝国大学工科大学助教授として東京に戻るまで、5年弱にわたり奈良県を中心とした関西で文化財の保存修復の指揮を執り、同時に建築史学、考古学の研究に大きな足跡をのこした。本報告は関野が奈良で過ごした5年弱の期間の活動に着目し、日本の文化財保存・研究に与えた影響・意義について考える。

2.廃仏毀釈と奈良の文化財
時代が明治に入り、1868年神仏分離令の発令に端を発して、廃仏毀釈の機運が全国に広まる中、奈良も例外ではなかった。多くの寺社は寺領を没収され経済的に困窮し、法隆寺では1878年に寺宝300件余りを皇室に献納するまでとなった。興福寺では僧侶全員が還俗させられ、春日大社の神官となった。荒廃した興福寺では、土塀が取り除かれ、境内の石は橋材に利用された。頭塔、子院の多くは会所、勧業所、紙漉所、県庁などに転用された。天理市内山永久寺など由緒ある寺院が廃寺となる例もあった。県知事が寺院の銘品を収奪することすらあったとされる。
こうした中次第に古来の文物に関する見直しが図られ、1871年には古器旧物保存方の太政官布告、1888年には臨時全国宝物取調局の設置などを経て、1897年(明治30年)古社寺保存法の成立をみる。これが現在の文化財保護法につながる、指定制度の始まりである。

3.関野貞の奈良での活動—文化財の保存と修復
関野は前年における古社寺保存計画嘱託としての調査をふまえ、まさしく古社寺保存法が制定される1897年、奈良県技師として奈良に着任するのである。
奈良に赴任するとまず関野は、わずか数か月の間に、奈良県下の多数の古建築から約80棟を選び出し、年代の特定、五等級の格付け、三段階の修理の必要度を示した。『古社寺建築物保存調査復命書』(1897年6月提出)である。作業は極めて迅速で、建築物の年代特定が非常に正確であることは現在でも驚嘆すべき点である。その背景には、論文「鳳凰堂建築説」(『建築雑誌』六月号(102号)1896年)、の作成において培った能力が生かされているとされる。ここで関野は歴史家・国学者が信頼性を高く評価する史料を網羅的に参照、鳳凰堂の創建年代を特定する。また建築の分析においては、特徴のある細部を取り上げて丁寧に説明した。加えて他に比較すべき資料を豊富に挙げ、形の変化の前後関係を詳しく説明した。その際実測図を作成することで得られる詳細な数値を使用した。これにより一つ一つの部材の形までが検討項目とされ時代とともに変化していく様子が解説された。関野の古建築に対する正確な年代比定は、こうした作業に裏付けられたものである。
『古社寺建築物保存調査復命書』をふまえ、関野は新薬師寺本堂を皮切りとして次々と古社寺建造物の修理監督に乗り出してゆく。

4.研究者としての関野貞
古社寺の保存修復に乗り出す一方で、関野は建築史、考古学の研究上の情報を蓄積し、それらの成果は関野が奈良を離れたのち、次々と発表される。なお、奈良在任中に新聞紙上に発表した小論は、棚田嘉十郎の平城宮址保存運動に強い刺激を与えることとなった。法隆寺再建非再建論争においては非再建論を主張し、また東大寺大仏の蓮座彫刻の年代の検討(「東大寺大仏蓮座彫刻の年代に就て」)、平城宮・平城京の復元的研究(『平城京及大内裏考』)、古瓦の研究(『日本古瓦文様史』)などをのちに公表した。

5.関野貞が関連諸学に残した足跡
以上の活動を通して関野は、建築学には、建築の記述方法・解説方法、建築修理の原則、建築細部の分析視角、建築史における文献資料の重要性、などの基礎を築いた。考古学に対しては、製図学に基づいた実測図、等高線を用いた測量図などの基礎的な技術をもたらし、また軒瓦の編年研究、平城宮・京の復元的研究における嚆矢となった。


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