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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】明治維新と南都寺院

第2回 ● 平成26年4月26日(土) 午後1:30
テーマ ● 明治維新と南都寺院
講 師 ●  吉井 敏幸 歴史文化学科教授

内容


 今日の東大寺や興福寺をはじめ西大寺、唐招提寺、薬師寺、法隆寺などの南都寺院は、明治維新期の困難な時代を通り過ぎて今日に至っている。
 南都寺院は奈良時代にはすでに創建されており、平安時代以降の中世では独立した宗教領主として大きな勢力を持っていた。なかでも東大寺は日本を代表する寺院として大きな権威を持っており、興福寺は藤原氏の氏寺として藤原氏の勢力を背景にして平安時代に勢力を拡大し、中世を通して大和一国を支配し、東大寺・多武峰(現、談山神社)を除く大部分の寺院神社を末寺としていた。ところが、信長・秀吉の頃には武士政権の配下に入り、江戸時代は通常の領知を持つ朱印寺院(壇家を持たない寺院)として参詣者を集める信仰の場、物見遊山の寺院となっていた。
 
 明治維新の神仏分離令は、慶応4年(1868)3月、二つの神仏分離令が出され、それまでの神仏習合を廃止し、神社奉仕の僧侶を還俗させ(服飾令)、神社境内にある堂舎を廃止し、寺院の鎮守社も分離させた。これはそれ以前からの排仏運動もあって各地で排仏運動が盛んになった。特に興福寺は春日神社と関係があったこと、興福寺内で尊王思想がひろがっていたことから、同年5月に寺自ら廃寺を決定し、数年後実施された。そのために興福寺境内地は国有地となり、そこに裁判所、県庁や郡庁、学校などが建てられ公園にもなった。さらに各寺院では鎮守社が分離され(破壊されていない)、村々の鎮守社にある宮寺までも廃止された。
 
 南都の寺院の多くは領知のある朱印寺院であり、また寺院周辺の山林も持っていた。明治4年(1871)に社寺領上知令により寺社周辺の山林はもとより、宗教活動のしていない空き地もすべて官有地となり、競売に付された。寺社領もまた明治7年(1874)社寺逓源禄が実施され、朱印領が取り上げられた。結果、南都寺院は大名などからの祈祷料や寄付もなくなり、貧困化した。
 
 他方では寺院に対する政府からの統制も強化された。江戸時代では本末体制があり、また幕府からの寺院統制があったが、前例に従えば特に抑圧されることはなかった。ところが明治元年から寺院住職の任命権が地方官(県知事)が持つことになり、明治5(1872)に七本山(天台・真言・浄土・浄土真宗・禅宗・日蓮・時宗)にまとめ、あらゆる寺院のそれいずれかの末寺となることが決められ、西大寺、唐招提寺、薬師寺、法隆寺は真言宗に、東大寺は浄土宗に属することになった。また同年に教導職十四級制が制定され、すべての僧侶は国からの等級制に組み込まれた。南都寺院はこれらの本山より古い歴史があることから、まもなく独立運動がおこった。また教導職制度も制度ができてすぐに崩れ始めた。本末制度では、興福寺が藤原氏一族などを背景にして明治15年(1882)に七本山ではない独自の法相宗として独立すると、法隆寺や薬師寺もこれに加わり、東大寺は独自に華嚴宗として独立し、西大寺は明治28年(1895)に真言律宗の本山、唐招提寺は明治33年(1900)に律宗の本山として独立するなど、七本山制も解体していった。また教導職制度も明治17年(1884)には廃止された。
 
 南都寺院には多くの什宝物(文化財)があり、明治維新の混乱期に多くの宝物が失われ、海外に流れた。これに対して明治政府は明治4年(1871)に古器旧物保存方というはじめての文化財保護命令を出し、翌年には京都・奈良などの寺社の宝物調査を実施した。その後奈良県では明治7年に奈良博覧会社が設立され、県下の宝物調査が実施されるとともに、翌年には奈良博覧会が東大寺回廊などを会場にして実施され、正倉院宝物などが展示され、この動きが明治22年(1889)の奈良博物館(今日の奈良国立博物館)の設置決定へと続いていった。
 





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