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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】まぼろしの平城神宮

第4回 ● 平成26年5月10日(土) 午後1:30
テーマ ● まぼろしの平城神宮
講 師 ● 黒岩 康博 歴史文化学科講師

内容

  2010年は平城遷都1300年であったが、それは1922年の史蹟指定を画期とする平城宮跡顕彰・保存運動史が再検討される機会となった。そして2011年に刊行された『明治時代平城宮跡保存運動史料集』により、「市民運動だった明治年間」の結晶として、これまで軽視されてきた平城神宮創建計画の重要性が明らかとなった。
 平城宮跡は、近世の地誌・紀行文・名所記において、奈良町の西郊外にあり「今も田を作らず」(貝原益軒『和州巡覧記』、秋里籬島『大和名所図会』)という状況が記されていた。また住民は、「内裏宮」「大黒〔大極〕殿」という地名から宮跡であることを認識していて、明治に入ってもその芝地を村の共有としていた。
 
 その「大極ノ芝」の存在を聞いた植木職人棚田嘉十郎は、1901年地元都跡村有志と芝地に標木を建て、県会議員・新聞社社長らとともに平城神宮建設会の発起人となった。ところが、祭神や建築家についての構想はあったものの、同会は大字共有財産の使途をめぐって早期解散してしまう。棚田は、幹事をつとめた同村出身の溝辺文四郎とともに、建設運動の中心を村外へと移して継続することとなる。
 
 1903年初めて上京した棚田は、宮内省関係者・華族・帝室博物館員などから建設事業への賛成を引き出し、設計者には奈良県古社寺修理技師塚本松治郎を得た。しかし、日露戦争のため運動は1年半ほど中断し、再開後も溝辺が宮跡の芝地寄付を訴えたが、都跡村からは逆に建設会時代に使用した金額の返還を求められ、神宮建設ための組織作りは地元ではなかなか進捗しなかった。
 
 次に棚田と溝辺は、塚本作成の神宮本殿図面・設計書と工費見積書を手に、建設資金の国庫補助請願に乗り出し、奈良市会・衆議院・貴族院の議員らの賛同をうけて、第23回帝国議会(1906年12月~1907年3月)への呈出を目指した。しかし、鉄道国有化法の審議や日露戦争後の請願ラッシュに押されてそれは叶わず、事後「平城宮址保存会」と活動組織の性格が変わると、奈良市内の有志は冷淡となり、都跡村の宮跡地主は「神社罷メ旧址保存而已ハ地所ヲ潰シテ益ナシ」と完全に関与を辞めてしまう。
 
 建設運動を支持する県官吏も異動となり、宮跡の単なる保存は地元の賛成を得られなかったが、溝辺は独自にご神体となる元明天皇像の作製を依頼し、その完成を待って像を安置する「御仮殿」の建設を計画する。しかし、やはり土地が必要となるこの計画が成就する筈もなく、長らく神宮建設計画に尽力した塚本も内務省へ去ったことにより、平城神宮建設は完全に断念され、元明天皇像は溝辺家で個人的に祀られることになる。
 
 こうして平城神宮は幻と終わったが、その原因は大きく2つあった。第1に土地を最後まで確保できなかったこと。建設運動への賛同者を集めることは出来たが、土地の買収が可能となるほどの資金は結局蓄えられなかった。第2に地域再編ビジョンの欠如。1910年の平城電気軌道敷設計画には、王寺から大極殿址を経て若草山までをつなぎ、訪問客が減少して忘却されつつある西の京地域を活性化しようという意図が込められていたが、平城神宮建設が周辺地域に何をもたらすのかということを、推進者は地主だけでなく賛同者にも説明できなかった。
 
 建設運動の途上、奈良市民から奈良公園に建設するなら応援するという声をかけられた棚田は、平城神宮は大極殿址に建設すべしとしてその意見を即座に否定している。しかし、彼らが平城神宮のモデルとした平安神宮は、もともと平安京大極殿からはるかに離れた地に建てられた、内国勧業博覧会のパビリオンであった。現在平城宮跡では建造物の復原が相継いでいるが、これは宮跡の「保存」よりも、平城神宮建設と同じく「顕彰」の意味合いが強い行為と言えるだろう。
 

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