
《公開講座記録》【人文学へのいざない】第1回
●2025年5月24日(土) 午後1:30
●テーマ:「ユーラシア草原の騎馬民族と正倉院宝物」
●講師 小田木 治太郎 (歴史文化学科 教授)
内容
プロローグ
講演者は、考古学が専門です。最初は日本の古墳時代の土器を研究していましたが、いまでは中国北方の騎馬民族の考古学が中心的な研究分野になっています。今回は騎馬民族の考古学と、奈良が誇る正倉院宝物にまつわる話をします。
1.正倉院宝物とシルクロード
正倉院宝物は、シルクロードを通じてもたらされた異国情緒あふれるものが多いことで有名です。シルクロードはユーラシア大陸の東西を結ぶ交易の道です。よく知られているのは砂漠地帯をラクダで往き来するオアシスルートです。またこのほかに、より高緯度の草原地帯を馬や馬車で往き来するステップルート、海上を舟で行き交うマリンルートがあります。これら3つのルートは中国で合わさり、さらに東の日本にまで伸びていました。
2.「紺玉帯残欠」と奈良時代の帯の制
今回、注目するのは正倉院宝物の中の「紺玉帯(こんぎょくのおび)残欠」です。本体は黒漆を塗った革帯ですが、青い石すなわち紺玉の飾りをたくさん貼り付けています。
奈良時代には、帯によって身分を表す「帯の制」がありました。その制に則った帯がどのようなものであったかは、研究によって明らかになっています。紺玉帯をそれと比較すると、飾りの形や並べ方が帯の制にきちんと則ったものと分かります。ただし、記録には紺玉がどのランクの人が用いるものはかは記述がありません。枠外にランクの高いの人、つまり天皇にふさわしい帯と考えられます。また同時期の中国すなわち唐王朝にもよく似た帯の制があり、日本と中国は連動する関係にありました。
3.紺玉帯の2つのルーツ
紺玉帯に使われている青い石はラピスラズリという石です。かつてはアフガニスタンでしか産出せず、それが各地で珍重されました。「紺玉」もアフガニスタンで産出し、それがシルクロードを通じて日本にもたらされたのです。
ただし、紺玉帯にはもう一つのルーツを考えることができます。それは帯に飾りをたくさんつける「飾り帯」についてです。
4.ユーラシア草原の騎馬民族と長城地帯
飾り帯のルーツは紀元前のユーラシア草原に遡ります。遊牧騎馬民族の文化は、南の農耕文化とは相容れず衝突を繰り返します。中国では南の農耕民が長い城壁を築いて遊牧民の侵入を防ごうとしました。それが「万里の長城」です。
紀元前7~3世紀の中国北方の遊牧民の墓地からは、青銅製や金製の飾りを並べた帯がよく出土します。細い袖の上衣とズボンという遊牧民の衣服に合わせたもので、ユーラシア草原で発達したものです。一方、そのころ、長城以南は春秋・戦国時代ですが、衣服はゆったりとしていて金具で飾った帯は使いません。
5.飾り帯の越境と漢における変容
紀元前202年、漢王朝が成立します。そのころなぜか遊牧民族の飾り帯が漢に入り込みます。文化を隔て、交流の障壁になっていた長城を越えるのです。最初は北方民族と同じように馬や羊を文様の題材としていましたが、次第に龍や亀といった自分たちの伝統に則った文様に変わっていき、まさに定着します。
6.飾り帯の拡散と紺玉帯
このように漢で定着した飾り帯は、独自の変容を続けて紀元3世紀ごろ、「晋式帯」と呼ばれる定型化した帯を成立させます。この帯は東アジアに拡散し、日本の古墳からも出土します。以後は中国・日本そして朝鮮半島という東アジア全体でこの帯が使われ、最終的に奈良時代や唐の帯の制へとつながるのです。
エピローグ
紺玉帯は、ラピスラズリを用いていることからシルクロードを彷彿させるもののひとつとして有名です。また一方、この講演で見てきたように、帯の形の源流は紀元前のユーラシア草原で活躍した騎馬民族にあります。単に物資が運ばれたというのとは異なり、帯の文化が、あるいは衣服の文化が、長城という大きな障壁を越え、さらに日本までもたらされたという意味で、より大きなできごとだったと言えましょう。