1944(昭和19)年4月に天理語学専門学校に入学した高見宇太郎氏に、学生時代のお話を伺い、当時の教科書も寄贈していただきました。
卒業は、1947(昭和22)年3月で、まさに戦中・戦後の混乱を極めた時代の中での学生生活でした。
天理語学専門学校支那語第一科
1944年4月1日、天理外国語学校は天理語学専門学校に改称され、語部も語科に変更されました。改称されて間もない4月7日に、第20回入学式がおこなわれ、朝鮮語科・支那語第一科・支那語第二科・蒙古語科・安南語科・マライ語科・イスパニヤ語科・ロシア語科・イギリス語科・ドイツ語科が開設されました。
マライ語科の定員は60名で、その他は10名~30名の定員であったのに対し、支那語第一科の定員は120名と突出していました。1944年の支那語第一科受験者数は309人で、120名が入学しました。高見氏もこの支那語第一科に入学しました。
笠置への夜行軍
入学した翌月、京都笠置への夜行軍がおこなわれました。行軍とは、生徒らが隊列をなして長距離を行進して移動する教練のひとつで、夜を徹しておこなわれるのが夜行軍です。
『心光』第16号によると、5月24日「三年生午前九時三十分丹波市駅発列車にて現地に向ふ、在校生、大楠公の史蹟研究、剣聖柳生但馬守の遺跡研究の目的を以て夜行軍を行ふ、二十五日午後六時帰校」とあります。
高見氏の記憶では、夕方出発し、奈良の奥山を通って笠置へ向かったそうです。暗闇の中、前が見えなかったので、前を歩く人の腰に垂らした白い布切を頼りに歩きました。笠置に到着すると笠置山に登りました。「あの辺一番かなんかったね(大変だった)、舗装してないでしょ、昼間砂埃が、あれで困りましたなぁ」とおっしゃっていました。
帰りは奈良公園まで来て一服すると、学生らはそのまま寝てしまったといいます。そこからは汽車で帰った人もいましたが、高見氏は徒歩で学校まで帰ったそうです。
グーグルマップで調べると、学校から笠置山までは30キロ以上の道のりです。現在と違い、街灯もなく、舗装もされていない、真っ暗な山間や田んぼの間を夜通し歩いて行く。16歳から18歳位の少年たちが、それを完遂しました。見事な体力と精神力です。
授業も食べる物もない
さて、戦局の悪化に伴い、高見氏らが「学校で勉強する」という学生らしい生活が送れたのは、第一学年の間だけだったといいます。
1944年9月24日、緊急動員が発令され、第一学年は柳本町の飛行場建設に出勤することになります。高見氏は現天理市内にご自宅があり、そこから学校へ通っていました。飛行場建設の間は、学校へは行かず、毎日ご自宅から柳本まで往復歩いて向かったそうです。もちろん、その間学校での勉強はありませんでした。
まともに勉強ができなかった、そんな学生時代でしたが、高見氏は、今でも学んだ中国語をたくさん覚えていらっしゃいます。初めて覚えた中国語は「我饿了」(腹が減った)だったそうです。
とにかく食べ物がなかった時代で、先生も生徒も皆毎日腹をすかせていました。また、寄宿生は特に困っていたそうです。教室に向かうために、校舎の階段を昇ると腹が減るから、と言って授業を休講にした先生もいたくらいだそうです。
当時、支那語第一科には中国人の金洪濤先生がいました。高見氏は、金先生から中国語の発音を褒められたそうです。食べ物がない、授業もない、学校へ行けない、様々な困難な中でも、必死に勉強した高見氏の学生時代が偲ばれます。
戦闘機が校舎の上を飛ぶ
戦争中ということもあり、今では考えられないような出来事がありました。
学校で過ごしていたある日、校舎(現一号棟)のすぐ上をグラマン戦闘機が一機飛んできました。戦闘機に乗るアメリカ兵の顔が見えたというので、かなり低空飛行だったでしょう。それを見て「コラやられる!」と、慌てて校舎の便所に逃げ込んだそうです。相手は撃たなかったが怖かった、と今でも恐ろしい体験として記憶に残っているそうです。
高見氏は、召集はありましたが、出征することなく復学できました。しかし、同じ支那語第一科の同級生でひとり、戦地から帰ることができなかった級友がいます。終戦の三日ほど前に戦死したと聞いているそうです。「志願して戦争に行かんでもえぇのに。彼のことが未だに目に浮かぶ」とおっしゃっていました。
外国語劇の復活
そして、1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎え、3~4日は混乱していましたが、すぐに授業が始まりました。
また、終戦の翌年には文化的な行事もおこなわれるようになりました。
1946年6月22日 新入生歓迎の語学劇大会 一般人も参観
同年10月27日 天理中学校講堂で文化祭 外国語劇を上演
1947年2月24日 友楽座にて文化祭
高見氏は支那語科の語学劇「芸術家」という演題で、主人公の妻役を演じました。天理教の東講堂で演じ、一般の人も観にきていたことを覚えていらっしゃるので、おそらく最初におこなわれた新入生歓迎の語学劇大会の記憶でしょう。写真をみると、たくさんの子供たちが舞台にかじりついて劇を観ています。
台本を渡され台詞を覚えろと言われただけで、練習はほとんどしなかったといいますが、上演から70年以上経った今でも台詞の一部を覚えていらっしゃいます。
先生の指導等もなく、学生らでつくりあげ、キャスティングもクラスで指名しあって、それとなく決まりました。女性の役なので、当時の古野校長の奥様が化粧を施してくださり、実姉のツーピースを借りて衣装にして舞台に立ちました。この語学劇は「楽しかった」と、笑顔で話しをしてくださいました。
楽しみや流行もあった
創設当初は男女共学だった天理外国語学校ですが、すぐに男女別の学校になり、終戦当時には天理語学専門学校と天理女子語学専門学校に分かれていました。共学になるのは、1947年の高見氏の卒業直後からでしたが、在学中にも、合併教室(現一号棟三階の両端にある大教室)に女子が来る機会があったようで、それが楽しみだったそうです。
また、制服の帽子にワセリンや油を塗って、テカテカと黒光りにするのが当時の流行でした。
学校の東側にあった山口池(現天理高校軟式野球場)では、学生が飛び込んで泳いでいたそうです。池は現在では埋め立てられていますが、池があった頃の様子を「風情があった」と偲んでおられました。
このように、混乱の時代の中でも、当時の学生らが、一所懸命自分たちなりの楽しみを見つけ学生生活を送っていたことがわかります。
当時の教科書を寄贈
学生時代から70年以上保管されていた、当時の教科書など合計38冊を寄贈していただきました。
『傳式華語教科書』は第一篇と第二篇に分かれています。この傳式(フー式)とは、傳培蔭先生が作った華語習得の勉強法で、華語を勉強する上での入門書になります。
傳先生は、1930(昭和5)年に天理外国語学校に着任され、1932(昭和7)年には逝去されます。着任期間は、2年という短期間でしたが、その後もこの『傳式華語教科書』は毎年使用され、少なくとも1944(昭和19)年までは使用されていたことが確認できています。
つまり、10年以上に渡り長く天理外国語学校の教科書として使用され、この傳式が当時の「外語の目玉」ともいえる勉強法だったと言います。
教科書のほか、天理外国語学校海外事情調査会が発行する『支那語研究』(1943)や、卒業記念に作られたクラス雑誌『前途』(1947)も寄贈してくださいました。
このように古い教科書や発刊物は、年史編集室にはそれほど多く保管されていません。また、当時の学生生活のお話も、体験した方でしか語ることはできません。とても貴重なお話をお伺いすることができ、本学の歴史をまたひとつ記録することができました。
参考資料
・昭和十九年度『文書往復綴』天理語学専門学校
・昭和十九年度『天理語学専門学校一覧』
・天理語学専門学校心光報国団『心光』第16号
・昭和21年~22年 報告書
(年史編纂室 吉村綾子)
資料提供のお願い
本学に関係する資料や、またはそれに関する情報を継続して収集しています。 皆さまからのご連絡をお待ちしております。