天理外語航空部【天理大学百年史コラム(12)】 2021.08.04 天理大学百年史

グライダーの図面(年史編纂室収蔵史料)

航空部といっても、現在は本学のクラブとして馴染みがありませんが、本学の前身である天理外国語学校には航空部がありました。
約5年ほどの短い活動期間だったようですが、どんなクラブだったのでしょうか。

当時の航空事情

1922(大正11)年11月15日、民間による初の定期航空路が開通しました。井上長一の日本航空輸送研究所による堺、高松線です。続いて、朝日新聞社の東西定期航空会、川西清兵衛の日本航空株式会社が開業しました。
その後、航空局の管轄が陸軍から逓信省へ移り、各地の民間航空の路線をまとめた大手航空会社の設立の気運が高まり、1929(昭和4)年4月1日に、官民合同の日本航空輸送株式会社が設立されました。

一方、その頃、法政大学と早稲田大学などに航空研究会が発足し、1930(昭和5)年には、日本学生航空連盟が設立されました。当時、アメリカやイギリスでは学生による飛行が活発におこなわれており、これにより日本でも学生らが飛行機の操縦をしたいという気運が急速に高まっていったといいます。こうして、民間航空の世界が学生の間にまで広がっていきました。

また関西においても、同年に京都大学と関西学院大学がそれぞれ航空研究会を発足し、1938(昭和13)年には「京大、阪大、関大、立命大、同大、関学、三高、外語(大阪外国語学校)、歯科医専、神戸高商等各大学専門学校航空学生八十余名」(同年11月14日朝日新聞「関西学生航空査閲」)が日本学生航空連盟に所属しており、関西の各学校にも航空部が設立されていきました。

天理外語航空部創設

そして、いよいよ天理外国語学校に航空部が創設されます。航空部の誕生については、『心光』11号(天理外国語学校心光会、1940年4月10日)に、当時の記録が綴られています。
天理外国語学校の校長山澤為次(在任1938年1月13日~1939年8月24日)の「航空部といふ程のものではなく、先づその前奏としてグライダー部を設けたい」という希望があり、小川政吉先生が東京朝日新聞社のグライダー部、関西各グライダー製作所に問い合わせたり、または近郊の学校で既にグライダー部を設立していた畝傍中学校、郡山中学校を訪問するなどして、グライダー部設立維持の経費その他について調べていましたが、山澤校長の退任とともに、グライダー部設立は実現しなかったようです。

畝傍中学校グライダー部(写真提供:中山和美様、奈良県立図書情報館奈良今昔写真WEB蔵)

しかし、1939(昭和14)年11月6日付で文部省普通学務局長小山知一宛に出した「学校滑空訓練状況調ニ関スル件」で、「本校ニ於テハ滑空訓練施設無之候」とした上で、「追テ本校ニ於テ十一月中ニ航空部又ハ滑空部創設ノ予定ニ付申添候」としており、山澤校長の退任後に、航空部を創設する動きがあったことがわかります。

そして翌月1日、興亜奉公日※の朝会席上で辻豊彦校長が航空部創設と日本学生航空連盟への加盟を言明し、翌日には、全校生徒を講堂に集めて航空部の誕生を発表しました。同時に部としての入籍手続を完了し、即日対外的には天理外国語学校航空研究会、校内的には天理外国語学校航空部と命名されました。
なぜ、学内と学外で名称が異なるのかについては、『心光』11号に以下のような説明があります。

「この学生航空連盟なるものは全国各高専大学の航空研究会が 組織単位となって結成されてゐるもので、従って各校の航空研究会員が日本学生航空連盟の会員となる訳であり、航空研究会が組織されなければ加盟は出来ないのである。又航空研究会なる名称も統一規定せられてゐるのである。前項の天理外国語学校航空研究会内規なるものも正直のところ加盟の必要上制定されたものなのである。」

生まれて初めて空を飛ぶ

こうして、加盟の必要上制定されたという規程に則り、航空研究会会長に小川政吉が、顧問に陸軍歩兵大佐の中田忠一、同じく顧問に生徒主事の吉田清一がそれぞれ就任しました。
航空部には、操縦部・機関部・グライダー部の3部が設けられ、入部希望者が、操縦部14名・機関部7名、グライダー部7名でした。この希望者たちは、1名をのぞきすべて別の部に所属していたので、各部では、最小限度の部員で活動しているにもかかわらず、部員が引き抜かれては困るということで、航空部に苦情が寄せられました。
最終的に各部との折り合い、また航空部の予算を勘案して、9名が入部することになりました。

入部したのは、操縦部に安里盛義・三木将司・旭孝生、機関部に前田兼夫・原田勝義・山中時敏、グライダー部に鮫島国幸・赤松文作・上野鐵男の9名で、部長は小川政吉教官、主将は安里氏、副将は鮫島氏、三将は旭氏に決まりました。ただし、1940(昭和15)年1月末で機関部は廃止されるので、実際に活動していたのは操縦部とグライダー部のみだったようです。グライダー部は1940年4月2日から訓練を開始します。
まずは、操縦部の3名の訓練が始まり、1939年12月19日に奈良陸軍病院で身体検査を受けたのち、翌日早朝から盾津飛行場(大阪陸軍飛行場、現東大阪市にあった)にて冬期訓練がおこなわれました。当日3名の学生は、見学だけで終わりましたが、翌日には初めて飛行機に乗りました。その時の記録(『心光』11号)には、

「同廿一日 午前から初乗り開始、おどけたやうな、嬉しいやうな 神妙な顔をし居たり、即日から空中操作を行ふ」

とあります。生まれて初めて大空を実際に飛び、興奮した学生たちの表情が目に浮かびます。また時には、機体が大破するほどの危険な瞬間もあったようです。

「(1940年)三月廿七日 今日も張切り訓練開始、小生の班十七号機鮮かに離陸、第一、第二旋回を終るやと見る内エンヂンストップ、頭を下げて畑の中へと!機体トンボ返し大破、見る影も無い。而し乗員無事、連日の吹雪中にての猛訓練中にガソリンの中へ水が浸入したためであった。後進者の良き教訓となる。」(『心光』12号)

学内における飛行練習はできないため、毎週金、土、日の3日間及び祝祭日に訓練を受け、さらに合宿訓練を定期的におこなっていたようです。毎週末の訓練では、飛行場近辺の天理教教会に宿泊させてもらい、飛行場に通っていました。
このように飛行訓練を積むことにより、3ヶ年間で飛行時間の合計が約60時間に達すると操縦候補生に志願することが出来、1ヶ年で航空兵少尉に任官され、更に本人の希望によっては現役に編入することも許可されました。

第7回全日本学生航空大会 制限地着陸の種目で優勝

初めての飛行練習からまだ1年もたたない1940年10月27日、第7回全日本学生航空大会が東京飛行場で開催されました。当時の朝日新聞(同年10月28日)によると200人以上の参加者があり、天理外語からの出場は主将の安里氏1名でした。
彼は、「制限地着陸」という競技種目に参加しました。これは、地上に描かれた幅60メートル、長さ200メートルの制限地内へ着陸する競技です。

まさに今から飛び立とうとする時の緊張や、心情が次のように記録されています。

「黒山の観衆が取り巻く中で、いよいよ三十余機が一斉に発動されてプロペラがきりきり舞ひ出し、爆音に徒らに心の落着きは打ちくだかれて行く、努めようとすればする程どうすることも出来なかった。このとき管長様から『ハルカヤマトノソラヨリゴフントウヲイノル一シンニヤレナカヤマ』との激電に、心の平静を取戻して慎重にやった」(『心光』12号)

と書かれています。
緊張で心の平静さが失われようとしているとき、管長(天理教二代真柱中山正善)からの電報「はるか大和の空より御奮闘を祈る、一心にやれ 中山」という激励の言葉を心に留め、冷静に競技に臨むことができたことがわかります。

そして、結果は
高度二千米、左旋回飛行の後幅六十米、長二百米の制限地内に着陸停止
1位安里盛義(天理外語)94点
2位深川吉郎(東大)90点
3位松本明三(立大)88点
4位藤田(神高工)86点
5位山本(名高商)83点
(朝日新聞1940年10月28日より)

なんと優勝です。
まだ創部より1年もたたずして、訓練の成果を存分に出し切り、見事に制限地着陸の競技にて優勝を勝ち取りました。

「大会出場の安里君」(『道の友』通巻752号 1940年12月1日より)
「海軍大臣賞を授与される安里君」(『道の友』通巻752号 1940年12月1日より)

滑空班の創設

1940年3月1日、文部省の発令を受け、天理外国語学校心光会は天理外国語学校心光報国団と改称され、次いで翌年8月15日には、天理外語心光報国団隊組織が編成されます。これにともない、航空部(操縦部)は航空班へとかわり、グライダー部は滑空班になります。しかし滑空班においては、新設の班として新たな体制で始まります。
1941年2月1日付で、滑空班の創設予算として、グライダー4機、練習服・油・修理用具等、格納庫内設備など合計3000円を計上しています。
実際に購入したグライダーは2機だったようですが、4月29日に命名式がおこなわれ、「天理第一号」「天理第二号」と名付けられました。この命名式には、いちれつ会代表始め校長職員並びに全校生徒が列席し、校長による始空式がおこなわれるなど、盛大に式典が催されました。

滑空機進空式、命名式の案内状(年史編纂室収蔵史料)
畝傍中学校グライダー部発会式(写真提供:中山和美様、奈良県立図書情報館奈良今昔写真WEB蔵)

グライダーには動力がないため、飛行機やウインチで曳航して飛ばします。「天理第一号」「天理第二号」の型式は「文部省式一型初級滑空機」といい、この初級滑空機は飛行の際にゴム索でパチンコのように機体を打ち出して飛ばします。
ページ冒頭の写真にある図面が、おそらくこのグライダーの図面であると思われます。

当時、滑空班に所属していた永尾隆徳氏に、グライダー練習の様子などを伺うことができました。(お話を聞いたのは2020年4月17日)永尾氏は、1944(昭和19)年4月に支那語第一科に入学しています。

「学校にグライダーがあり、部員は30人ぐらいいた。今の体育館がある辺りで練習していた。二股になったゴムを1本5人、もう1本も5人で引っ張る。それをぐーっと引っ張って、誰かがグライダーの後を押さえて、ゴムが十分に伸びきったときに離す。そうするとグライダーがしゅーっと飛ぶ。ちょうど昔のパチンコみたいな感じ。
せいぜい、よくあがっても2mくらい。それでもすーっといって、なんとか着陸できたら成功。ところが下手なやつが引っ張るとゴムを踏む。すると、ゴムがよじれて弱くなってしまう。弱くなったゴムを引っ張っていると、ゴムが切れて「ばーーーん!」となる。それは怖い。いつゴムが飛んでくるかわからんから、怖々ゴムをひっぱっていると、「お前ら何やっとんねん!もっとしっかりやれ」と教官に言われた。
グライダーに乗るのは上級生で、下級生はゴムを引っ張る役だった。
戦後グライダーはどうなったかわからない。」

このように、当時の体験を語ってくださいました。

畝傍中学校グライダー部。左側の学生らがゴムを持っているのがわかる。(写真提供:中山和美様、奈良県立図書情報館奈良今昔写真WEB蔵)
畝傍中学校グライダー部(写真提供:中山和美様、奈良県立図書情報館奈良今昔写真WEB蔵)

終戦後、戦時教育令が廃止されるなど、様々な禁止令が発令される中、1945(昭和20)年10月31日、文部省体育局長より地方長官及び官公私立大学高等専門学校長宛に「学校滑空訓練ニ関スル件」と題した通達が出されます。ここには、「学校ニ於ケル滑空訓練ハ爾今之ヲ行ハザルコトト相成タル」と書かれています。こうして、全国の滑空部を持つ学校では、滑空訓練を中止し、そのまま廃部となってしまった学校も多くあるでしょう。天理語学専門学校(1944年4月より名称変更)の場合は、現在の調査では活動記録は1944年度の半ばまでしかたどれません。滑空訓練中止の通達と同時に廃部となってしまったのかもしれませんが、いつまで活動していたかを明確に知ることはできません。
ただし、通達には滑空機や附属器材などは科学工作教育用教材として活用利用し、廃棄焼却等をしないこと、格納庫や整備及び修理工場などの設備は増産用勤労基地等として転換利用を図るものとする、とも記されています。歴代にわたり、校内には他所から転用した建物などが点在しています。もしかすると、廃部となったあとも2機のグライダーや関係器材、設備なども何かに再利用されていたかもしれません。

「学校滑空訓練ニ関スル件」(年史編纂室収蔵史料)

本学には航空部やグライダー関係の写真が残っていません。少しでも当時の様子を実感するために、畝傍中学校グライダー部の写真を多用させて頂きました。ありがとうございました。なお、本学の航空部やグライダー関係の写真や資料をお持ちの方は、ぜひご連絡ください。

※興亜奉公日:国力増強・戦意高揚を意図して、昭和14年(1939)8月11日の内閣告諭により定められた毎月第一日の称。禁酒禁煙・一汁一菜・飲食店休業などが義務づけられた。(JapanKnowledgeより)

参考資料

・天理外国語学校心光会『心光』11号 1940年4月10日
・天理外国語学校心光会報国団総務部『心光』12号 1941年3月15日
・天理外国語学校心光会報国団総務部『心光』13号 1942年1月25日
・天理外国語学校心光報国団総務部『心光』14号 1942年9月20日
・天理外国語学校心光報国団総務部『心光』15号 1943年9月20日
・天理外国語学校心光報国団総務部『心光』16号 1944年9月20日
・『みちのとも』天理時報社 1940年12月1日
・佐藤淳造「大学航空部(グライダー部)の現況について」『日本航空宇宙学会誌』第43巻第494号 1995年3月
・牧野伊兵衛「大空への道」(同志社大学)『航空部50年の歩み』
・関西学院大学体育会航空部70周年記念誌『新月』 2008年12月
・国立国会図書館WEBサイト『本の万華鏡』「第5回ようこそ、空へ~日本人の初飛行から世界一周まで~第2章 航空産業の発展・新記録への挑戦」(https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/5/2.html)


(年史編纂室 吉村綾子)

資料提供のお願い

本学に関係する資料や、またはそれに関する情報を継続して収集しています。 皆さまからのご連絡をお待ちしております。

お問合せ先

関連リンク

ページ先頭へ