「ハワイ洋上大学」計画【天理大学百年史コラム(20)】 2022.07.12 天理大学百年史

ハワイ洋上大学の参加受付の様子。1983年

かつて、500名の学生が10日間船上にて様々な研修をおこないながらハワイを目指す「ハワイ洋上大学」と名付けられた計画が進められていましたが、実現することなく中止となりました。
このハワイ洋上大学は、1985(昭和60)年の本学創立60周年記念事業のひとつとして計画されていたものです。実現はしなかったものの、どのような内容で、どのように進められていったのかを追っていきます。

創立60周年記念事業

ハワイ洋上大学は、コーラル・プリンセス号(イギリス船籍、1万5000トン)を貸し切り、天理大学生500名を乗せて、1985年8月14日に神戸港を出発し、ハワイに到着するまでの10日間、船上で各研修をおこない、25日から4日間ハワイにて現地研修に参加したのち、空路にて30日に帰国するという計画でした。

[日程]1985年8月
14日(水)15:00 神戸港出港
15日(木)8:30 ハワイ洋上大学開講
 ↓洋上研修
24日(土)8:30 ハワイ・ホノルル港入港
  13:00 入国手続後午後行事参加
  22:00 船中泊
25日(日)8:30 ハワイ現地研修
29日(木)午後 ホノルル空港出発
30日(金)午後 大阪空港着(帰国)

ハワイを目的地としたのは、同年が「国際青年の年」であり、「ハワイ日系人官約移民100周年」の年であったこともありました。
ハワイは、天理教の海外伝道にとって重要な拠点であり、また、この100周年を記念して行われる現地の記念行事に参加することにより、初期移民の生活や、原住民との文化交流の歴史などを学ぶことができるという考えがあったようです。
また、翌年1月におこなわれる天理教教祖百年祭の執行にむけて、こうした大規模な事業を実現することで、天理大学の活性化をはかり、学生としての教祖年祭活動を作り出したいという思いもあったようです。

1983(昭和58)年12月、二宮道一氏を総務委員長として昭和59年度の学生自治会(心光会)の総務委員が決定しました。
就任後まもなく、二宮氏は天理教教会本部表統領室教養問題事務局長よりハワイ洋上大学の計画を提案されます。局長の熱弁にみるみるうちに吸い込まれ、このハワイ洋上大学計画を実現させるために動き出すことになったといいます。こうして、大学と学生自治会(心光会)の共催によるハワイ洋上大学の計画がスタートしました。

当時の二宮氏の気持ちは次のように書かれています。
「お祭り気分からこの話を受けようと思ったのではない。無責任と言われれば仕方ないが、これは絶対実現できるとその時私は思った。というよりも、今の時期において、天理大学がこの洋上大学を実現させなければならないと思った、というほうが本当かもしれない。細々とした組織的改革やカリキュラムの変更などといった表面的な事柄だけではこれ以上の大学の進歩はないと思ったのである。〈中略〉大きな飛躍をするためには、天理大学の眠りを覚ますような力強い爆弾がいる。という理由から私は洋上大学に踏み切った。」これは、計画の中止が決定してから半年以上が経過した翌年3月に、二宮氏が「ハワイ洋上大学の反省を試みて」と題してまとめたものです。
また、藤善尚憲教授(当時、学生部長)は、「これは、本学が創設当初から「海外雄飛を目指す国際人の養成」という海外に眼をむけたあらきとうりょうの育成にその主眼をおいてきたことによる。この創立六〇周年という旬に、その基本的な信念を再認識するとともに元一日の建学の精神を具現化し、本学将来への発展とその活性化の礎にしたいと考えるからである。〈中略〉さらに、本行事は大学の記念行事というにとどまらず、大学と学生自治会の共催というそれこそ教職員・学生が一手一つとなった他の大学には類をみない「陽気ぐらし」の実践につながるものである。
海は人間のふるさとでもある。その果しない紺碧の大海のただ中に自身を位置づけることにより、大自然がわれわれの人生の視点を方向づけることにもなるであろう。その洋上生活を通して教職員・学生の平素得られないコミュニケーションを図ることは、恐らく一生涯忘れ得ぬ未来への雄大な夢とロマンを与えてくれるものとも思う。」(天理大学広報号外)として、ハワイ洋上大学の意義と積極的な参加を呼びかけました。

実施要項

ハワイ洋上大学の実施要項は次のように定められました。

▼主催 天理大学、学生自治会(心光会)
▼企画・運営 天理大学ハワイ洋上大学実行委員会
▼訪問地 アメリカ合衆国ハワイ州
▼使用船 コーラルプリンセス号
▼日程 別掲
▼参加費 298,000円(船費、航行運賃、ホテル宿泊費、朝・夕食代、バス代等)ローン可、大学から若干の補助を予定
▼募集対象 天理大学学生
▼募集人員 500名(最少催行人員450名)
▼募集期間 昭和59年6月1日~7月10日
▼参加申込受付期間 昭和59年6月7日~7月10日
▼参加申込金 50,000円(参加費用の一部に充当)は9月28日までに専用口座へ振込むこと
▼参加申込先 本学学生課または学生自治会
なお、参加人数により若干の変更点が生じるかもしれないが、多数の参加者を望むものである。

(『天理時報』2837号1984年4月15日より)

参加募集期間は、1984(昭和59)年の6月から7月初旬で、実施は1985(昭和60)年の夏季休暇中の予定でした。つまり実施は翌年のため、募集時点で1年生~3年生までしか参加できないことになります。
1984年6月時点での総学生数は2517人のため、1年生~3年生の学生数は約1880人程度になります。募集人員は500人で、最少催行人員450人のため、約24~26パーセントにあたる学生が参加を申し込まなければ実施できませんでした。
また、298,000円という参加費用も決して安くはありません。
さらに、この計画を進める自治会総務委員らは4年生だったので、ハワイ洋上大学を実施する頃には卒業しています。そのため、留年を覚悟で計画を進めていたといいます。
このように、一大事業を実施するには、様々な問題が山積みでした。この困難について、二宮氏は「あまりに突然であり、大きすぎる規模のこの案は、決して回りから賞讃を受けなかった。むしろ、大反対であったのである。まず、総務委員のメンバー、そして大学当局、教授陣、さらに一般学生の反対、あるいは無関心だ。大学当局や教授陣の反対は、ある程度仕方ないとはいえ、総務委員の反対は痛手であった。」(「ハワイ洋上大学の反省を試みて」)と振り返っています。

計画開始

1984年の二宮氏の日記から、準備から中止に至るまでをたどっていきます。
(日記に登場する人物名は編集しています。それ以外は本文のまま翻刻しています)

●1月16日(月)
10時前、神殿でAと会い、245の中華料理店へ行く。洋上セミナーの件で考えさせられた。この旬に、そんな派手なことをやるべきなのか、と言うのである。また、それによって一体天理大学がどうなるのか、と口にする言葉がなかった。地道保守派の彼らしいが、よく考えている。もっともっと我々も練らなくてはならない。

●1月29日(日)
きょうのコンパでは洋上セミナーのことを、かなりいろんなやつに話した。あまりピンと来ない様子である。

この前月に、ハワイ洋上大学の計画案が局長より伝えられ、早速周囲に洋上大学の計画について広めていく様子がわかります。ただ、あまり周囲の賛同は得られていない状況が伝わってきます。 

●2月2日(木)
2時から、総合案内所にて洋上大学の映画を見る。「友好」というテーマのフィルムで、九州の青年と中国との交流の様子である。約10名で見た。規模の大きさ、内容の多彩さに驚いた。

●2月3日(金)
ESSのコンパで、BとCから、洋上大学の件反対の旨言われる。つらい。

●4月14日
洋上セミナーも着々と実施に向けて進められている。Dが実行委員長となってやってくれるようだ。

この翌日である4月15日に発行された天理時報(2837号)が、「来夏に洋上大学」という見出しで「国内でも例のない、一大学五百人参加の洋上大学実現へ向けて、具体的な諸準備を進めていく方針だ」と報じています。こうして計画は、全国の教内者にも報じられ、この頃は計画が着々と進んでいるようにもみえます。

●4月23日(月)天理大学創立記念日
本日の参加者は、少なくとも我々が海外へ行くことの必要性は感じとってくれたことと思う。それが今日の目的であるから、その目的は達せられた。しかし、この企画によって感じたことを雅楽部々長のEが言ってきたが、洋上セミナーの記録映画「友愛」によってますます洋上セミナーの真実性が濃くなり、我が事として考えられるようになってきた反面、これが果たして学生の身によって成功できるのかという一末の不安が心に起こるのを目逃せないということだ。
洋上大学に関しては、早く実行委員を結成し、その内容充実へ向けて一層具体化していかなくてはならない。そのためには、現在の3回生、2回生の中から参加者を早く募り、その内からスタッフとなるべき人間を選ばなくてはだめである。この実行委員長をだれがするかということであるが、俺が即やるのがいいのか、それとも別の人間にさせるのがよいのか、人の意見は様々であって自分としても決めかねている。

●5月8日(火)洋上大学は出来うるか
この問題を真正面からとらえ、現実の天理大学を見た場合、誰れしもが不可能であるというに違いない。私もそう思っていたし、現在も出来るとは言い切れない。
教祖百年祭の旬にこのような大事業が現れてきたということは、これを通して洋上大学に携わる人との心を育てて下さっているのである。学長然り、教職員もまた然り、そして私達学生も。

計画開始から5ヶ月がたっていますが、おそらく周囲の反応はまだ賛成へと傾いてはいないようにみえます。

募集から計画中止へ

●6月19日(火)
きのうより初めた心光館のそうじに、朝8:00 F、D、Hが来た。いよいよ南棟ホールへ申込受付場所を設けることゝなり机を出して準備した。殆んどIが詰めて呉れていたが資料こそ貫いに来る学生は居るが実際に申込む者はゼロ。
ボックスに呼んで成人会のJと話してみるが、もうひとつ反応がはっきりと返って来ない。正直なところガッカリした。KとHが田井庄で河瀬先生と会っている間に、Lと2人で「雅楽部参加決定」のたれ幕をおろし、ホールの受付場所の設営にかゝる。D、M後からH、K、Nが手伝ってくれて楽しく出来た。皆で参拝して帰る。明日からの募集活動が楽しみである。

いよいよ6月19日より、南棟ホールにて受付が始まったことがわかります。ただ、申込者は「ゼロ」とあり、なかなかスタートは厳しかったことがうかがえます。
3日後の6月22日には、ハワイ洋上大学の計画について書かれた天理大学広報号外が発行され、大々的に参加を呼びかけました。
しかし、申し込みの締め切りの翌日である7月11日には計画の中止が決定しました。

●7月16日
洋上大学の断念から早や5日が過ぎた。きのう神戸港でみた新さくら丸が船との別かれを物語っているのだろうか。Dは船を見て泣いていた。俺も思う存分泣き叫びたい気分は消えない。しかしなぜか涙が出てこない。

受付開始から中止に至るまでの間、二宮氏の日記は記されておらず、状況がどのように変化していったのかはわかりません。
中止の理由については、天理大学広報87号に「諸般の事情によりやむなく中止」と小さく報じられただけで、その詳細については触れられていません。
二宮氏は、「ハワイ洋上大学の反省を試みて」の中で、実現できなかった理由のひとつとして、総務委員が一丸となって計画を進めることができなかったことを挙げています。あまりに壮大な計画であり、実施は次年度であるため留年も考えなくてはならない点など、数名の総務委員だけで実現するには大きすぎる企画だったのかもしれません。しかし「実現は出来なかったけれど、洋上大学の成功を目指して奔走した半年間は決して無駄にはなるまい」と、振り返っています。
最終的に参加申し込み者は百数十名であったということから、最少催行人数には大きく届かなかったということも理由のひとつでしょう。しかし、逆に100名以上の学生がこの計画に賛同し、洋上大学に参加したいという思いを持っていたことは明らかです。

募集内容を掲載した天理大学広報号外(1984年6月22日)
計画の中止を報じた天理大学広報87号(1984年11月15日)

周囲の反応

当時を知る卒業生は「ハワイ洋上大学」計画をどのように感じていたのでしょうか。

[1986年3月宗教学科卒業]
よく覚えています。1学年上の人たちがかなり頑張ったのですが、結局中止になりました。
残念な結果にはなりましたが、学内はかなり盛り上がりました。

[1987年3月宗教学科卒業]
「ハワイ洋上大学」という言葉は記憶にあります。
募集人員500名ということで、そんな人数あつまるの?といった記憶があります。
私は苦学生でしたので、参加費用があれば自動車の免許を取りに行くと思ったと記憶しています。
参加申し込みしている人もいたみたいですが、うらやましいと思った次第です。

[1988年3月イスパニア学科卒業]
昭和59年4月に入学し、在学中に確かに募集の話は聞いたことがありましたが、当時の私は学費を親に出してもらうのに精一杯で、生活費はアルバイトで稼ぐ生活で、この研修や海外渡航・留学には行きたくても経済的に断念しなければいけなかった状況で、あまり詳しくは聞きにも行きませんでした。

[1988年3月英米学科卒業]
1、2年の頃ですが、洋上大学があるという噂は学生の時に聞いたことがあります。詳しくは知らなくてハワイに行って英語を勉強する研修、何か大きなことをするんだというイメージをもっていました。私は経済的に余裕がなかったので考えられなかったのですが、参加を考えている同級生がいたように思います。実現しなかった経緯などは詳しくは知りません。そういえば行ったというのを聞かなかったなというくらいです。

このように、費用面が厳しかったという思い出が多かったことから、大多数の学生が同じ思いをしていたことも考えられます。
実現には至らなかった計画ではありますが、大きな計画に向かって進む学生たち、参加しようともできない状況、またはこうした計画には関心を示さなかった学生たち、様々な当時の天理大学生の姿が、この「ハワイ洋上大学」を通して見ることができます。

洋上研修プラン

最後に、計画されていた研修プランです。船上という限られた空間で、国際教養を学び、文化やスポーツを体験し、また夜は参加者が交流を深められるように様々な催し物を計画していたことがわかります。

船内研修プラン
【Ⅰ】必須講座(午前8:30~11:30)
1.国際教養講座
●異文化間コミュニケーション
●国際青年を目指して
●新太平洋時代の国際政治・経済
●世界諸宗教の比較海外伝道史
●環太平洋史の文化事情
●日系移民史
●国際社会における天理大学
2.語学研修講座
英会話(初級・中級・上級)コース

【Ⅱ】選択サークル(午後1:30~4:30)
1.文化・教養活動
●選択語学(朝鮮語・中国語・英語等)
●英語教養(教義・就職・検定)コース
●パソコン教室
●茶道・華道教室
●書道・ペン字教室
●ジャズ教室
●タイプ教室
●雅楽教室
●手話教室
●絵画教室
●手芸教室
●航海・天文教室
●その他
2.スポーツ活動
●水泳
●空手
●少林寺拳法
●合気道
●卓球
●ゴルフ
●デッキテノス
●シャフルボート
●ダンス
●ヨーガ
●各クラブ活動
●その他

【Ⅲ】自由参加活動(夜6:00~9:30)
(1)グループ研修(クラブ・団体)
(2)映画鑑賞(洋画名画鑑賞)
(3)音楽鑑賞
(4)ダンスパーティー
(5)ジャズ・コンサート
(6)マージャン・囲碁・将棋
(7)その他各種催物
ハワイ現地研修プラン
1.現地学生との文化・スポーツ交流
2.宗教行事(伝道実習・ひのきしん)
3.ハワイ日系人官移民100周年記念行事参加
4.見学研修
㊟研修プラン・船内日課、ハワイ現地プランのスケジュール等詳細については今後さらに検討する。

参考資料

・天理時報2837号昭和59年4月15日
・1984『天理大学』(大学案内)
・天理大学広報号外1984年6月22日、87号1984年11月15日
・第36回天理大学祭プログラム「維新」天理大学祭実行委員会 


(年史編纂室 吉村綾子)

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