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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】坂本龍馬があこがれた?戦争—天誅組の乱を見なおす

第4回 ● 平成27年10月18日(日) 午後1:30
テーマ ● 坂本龍馬があこがれた?戦争—天誅組の乱を見なおす
講 師 ● 中村武生 歴史文化学科非常勤講師

内容

1.坂本龍馬と天誅組
文久3年秋頃(1863年)、故郷土佐高知の姉乙女や姪の春猪に宛てた坂本龍馬の書翰によれば、「先日大和国ニてすこしゆくさのよふなる事」と、同年8月から9月にかけて起きた、天誅組の乱を話題にしている。この戦いに姉や姪が既知の土佐出身者(池内蔵太、吉村虎太郎、土居佐之助、上田宗児〈のち後藤深造〉など)が参加したことを述べ、「先日皆々うちまけ候よし」と、その敗戦を伝えた。そのうえで、私が少し「さし引」をしたならば、まだまだ討手の勢ハひとかけ合セにて、打ち破ったのにと言う。実際に現場にいなかった傍観者の無責任な発言であるのだが、それほど龍馬はこの戦争に思い入れがあったといえる。大坂夏の陣以来、約250年ぶりの上方での市街戦に参加できた、仲間へのいわば嫉妬ではなかったか。

2. 天誅組研究のこれまでと課題
1960年代以前の明治維新史研究は、どのような階層によって維新が実現されたのか、その変革主体者の解明などがながく課題であった。そして革命段階論的に下からの革命(ブルジョア革命)であることが望まれたため、多くの農民が参加している天誅組の乱などは研究対象となり得た。
ただし事件そのものは、指導した下級武士層が農民を利用しただけと理解されたため、それに気づかれて逆襲され、挙兵は失敗に終わったと評価は低かった。とはいえ文久3年の段階で「討幕の勢力配置の見取図がほぼできあがった」(堀江英一『明治維新の社会構造』)と位置づけられたので、「倒幕挙兵の先駆」という評価は与えられた。
しかしこの問題意識は、1960年までの社会変革の関心を投影しすぎていた。現実の幕末政治過程が階層ごとの党派的な離合活動によってなされていないことが明らかになってみると、変革主体者の検討は意味をなさなくなった(青山忠正氏『明治維新と国家形成』)。
このような問題意識により、1980年代以後、幕末政治過程の実証が進められてみると、たとえば原口清氏は、「天誅組挙兵などに、討幕の意図や討幕の先駆的形態を見る説も古くからあったが、今日では否定されたものと見てよいであろう」、「天誅組挙兵は尊攘派がこれまで行ってきた天誅主義の大規模な暴発形態と性格づけることが妥当であり、尊攘主義の枠内のもの」と、従前の天誅組評価に否定的見解を導き出した(「幕末長州藩政治史研究に関する若干の感想」『幕末中央政局の動向』所収、初出は1998年)。天誅組はなぜ研究されるべきか、枠組みも含めてあらたな意義が問われているといえる。

3. 天誅組の再評価
戦後、『河内長野市史』の編纂に関わった時野谷勝は、同市域で新たに発掘された史料により、天誅組に参加した南河内地域の農民の動向を考察した。嫌疑を受けた参加農民への寛大な処置から、追討側に一定の支持層のあることを指摘し、弱小勢力といえる天誅組が一カ月余も吉野地域などで抗戦できた理由に結び付けている(「天誅組考」『専修史学』14号所収、1982年)。
農民参加者に注目するのは前述した1960年代以前の問題意識によると思われるが、追討側に天誅組への理解があるという指摘は改めて注目すべきである。これはたんに動員されただけの無関係の農民に限られたことでなく、天誅組首脳に対しても同様であったからである。
常陸下館出身で、主将中山忠光の小姓頭であった渋谷伊予作は、その使者として追討軍である伊勢藤堂氏の陣に赴き、捕縛される。渋谷を訊問したところその申し立てに藤堂側は動揺する。京都守護職会津侯松平容保に対して、「『尊王攘夷』について身命をなげうっており、『真之乱臣賊子』ではないと思われる。ことに朝廷から攘夷実現が仰せ出されている時勢において、『皇国勇敢之士は養置』たいときであるので、彼らを一時に討ち潰してしまうというのは実に残酷である。『鎮撫』ということにして彼らをさとし、生国に帰郷させて領主などに是正させてはどうか」と意見し、天誅組につよい同情を示すのである。

4.浪士取立と会津の強硬姿勢
なぜ藤堂氏はこれほどまでに渋谷ら浪士に期待をするのか。それは当時の浪士取立の風潮を知って初めて理解できる。
桜田門外の変や東禅寺事件など、浪士による要人・外国人襲撃の頻発に手を焼いた徳川幕僚部は、浪士清河八郎の建白をきっかけとして、文久2年末までに、来たるべき攘夷戦争の先鋒に浪士を起用すること(浪士取立)を決定する(三野行徳「幕府浪士取立計画の総合的検討」大石学編『一九世紀の政権交代と社会変動』所収)。
彼らは「浪士組」として組織され、文久3年2月、将軍家茂に先立って上洛する。が、横浜での対イギリス戦争の危機にあわせてまもなく帰東、約20名が残留を希望し許される。それに先立って、すでに入京していた京都守護職会津侯松平容保も、大坂湾を含む摂海での攘夷戦争を想定し、水戸の武田耕雲斎を主将とする浪士集団を組織、自ら率いる意志を示している。実際、それからまもなく、在京浪士藤本鉄石を本拠である洛東黒谷に招くなどして、上方浪士の組織化を計画していた。ただしこれは実現せず、前記浪士組残留者が会津所属の浪士組織となる(新選組)。
興味深いのは、これほど浪士取立に積極的であった京都守護職会津が、前述の藤堂氏らの「鎮撫」の意志を制し、天誅組討伐を強行したことである。翌年2月には、逮捕した浪士19名を早々に殺害する。戦死した天誅組総裁の一人には、会津から浪士取立の打診を受けた藤本鉄石がいたことにも注意せねばならない。会津のこの変化はどのような事情にもとづくのであろうか。このことは、同じく元治元年7月以後、守護職会津を含む「一会桑勢力」が幕末京都政局を牽引した点に鑑み、会津の対浪士(ひいては背後の長州毛利氏)政策の転換をさぐる重要な論点となろう。

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