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 【生涯学習】

《公開講座記録》【天理大学公開講座】江戸時代における民衆信仰の興隆と変容

第5回 ● 平成27年6月6日(土) 午後1:30
テーマ ● 江戸時代における民衆信仰の興隆と変容
講 師 ● 神田秀雄  総合教育研究センター教授

内容

江戸時代後期から明治時代にかけての日本には、いくつもの新しい宗教が生まれている。「幕末維新期の民衆宗教」と呼ばれているそれらの宗教は、江戸時代の宗教史、特に民衆の信仰活動のどのような筋道の中から誕生したのだろうか。
 
 よく知られているように、江戸時代の社会は、寺請制と本末制という二つの制度によって大きく枠付けられていた。すなわち、キリスト教の禁教が大原則とされた江戸時代には、支配階級のごく一部を除くほとんどの人はいずれかの仏教寺院の檀家として登録され、キリシタンでないことをその寺に保証してもらわねばならなかった。また、仏教の各宗派では、本山がすべての末寺の活動に責任を負わされ、末寺は本山の統制に服すべきものとされていた。そして、そのような制度的枠組みがあったために、当代の人々にとって檀那寺は、葬式や法要を依頼する対象ではあるとしても、自由な信仰活動を展開する場にはなかなかなりにくかった。たしかに江戸時代にも、浄土真宗や日蓮宗などのように、宗派としての宣教活動に熱心な宗派もありはしたのだが、日常生活上に何かの問題を抱え、救いを求める必要が生じた場合、人々は、各自の檀那寺よりも、むしろそれとは直接関わりのないさまざまな神仏に頼っていくことが多かったのである。
 
 江戸時代民衆の宗教的な活動が寺請制度(檀那寺を場とする活動)の枠外で活発化しはじめたのは、おおむね元禄時代、つまり5代将軍綱吉の頃からだった。そうした事情の表れの一つは、寺社が本尊や秘仏・霊宝などを外へ持ち出して参詣を受ける「出開帳」の流行が、この時期の江戸にはじめて起こったことで、以来、幕末まで、特に山城国清涼寺、信濃国善光寺、下総国成田山新勝寺、甲斐国身延山久遠寺の出開帳は、江戸出開帳の「四天王」と呼ばれていった。また、街道や内海航路の発達にともなって、遠隔地霊場への人々の参詣が普及していったこともそのもう一つの表れで、伝統的な伊勢参りや善光寺参りなどのほか、讃岐の象頭山金毘羅大権現、相模の大山阿夫利神社や江之島弁財天、山城の愛宕山、大和の生駒山宝山寺などへの参詣や、富士山や御嶽山などへの登拝、およびそれらを目的とする講組織の結成も、特に18世紀以降、急速に広まっていった。さらに、突然に何らかの利益が噂されて急速な流行を遂げる「流行神」が、元禄時代頃から、三都などの都市部を中心に現れるようになり、翌世紀初頭の文化・文政期には爆発的に簇生するようになっていった。
 
 江戸後期から明治時代にかけて、「幕末維新期の民衆宗教」各宗派は、およそそのような民衆的な信仰活動の展開を受け継ぐかたちで成立している。とはいえ、「出開帳」や「霊場参詣」の流行が各宗派の成立を直接促したわけではもちろんない。むしろ当時の人々にとって「出開帳」や「霊場参詣」は、仏教諸宗派の宗祖や中興者に関する伝承、寺社の縁起や神話など、民衆的な信仰にまつわる各種の物語や情報に接する貴重な機会になっていたのである。また、たとえば天理教の原典の一つである『おふでさき』に、「このたびハ もふたしかなる まいりしよ(参り所)/みへてきたぞへ とくしん(得心)をせよ」とあるように、後に大教団に発展した宗派においても、当初、人々は、「参り所」すなわち「流行神」のような参詣対象にすがる意識で参詣していたと解せるのである。
 
 1802(享和2)年に尾張国熱田で創唱された如来教には、約250篇にものぼる教典『お経様』をはじめとする膨大な教団史料が所蔵されており、それらを分析すると、同教が、以上に見たような江戸時代民衆の信仰活動の展開から多くの要素を摂取して成立していたことを確認できる。如来教はまさに典型的な事例であるが、同様な特徴は、「幕末維新期の民衆宗教」一般が程度の差こそあれ共有している特徴だとみることができよう。
 
 

 

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