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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】東吉野村の「魚見石」—神武聖蹟と伝説の変化—

第5回 ● 平成26年5月17日(土) 午後1:30
テーマ ● 東吉野村の「魚見石」—神武聖蹟と伝説の変化—
講 師 ● 齊藤 純 歴史文化学科教授

内容

今から30年余り前、大学で民俗学を専攻し、卒論のための調査で、奈良県吉野郡の東吉野村で民話を尋ねて歩いた。小(おむら)という集落で聞いた話によると、同地の川岸に「魚見石」という岩があり、神武天皇が大和に攻め入る前、「厳瓮(いつべ)」 という土器を流して占った。これには酒のようなものが入っていて、魚が酔って流れたら戦に勝つという。その通り魚は流れ、それを見た場所が魚見石だというのである。語りに精粗はあっても、土地の古老と呼ばれる人は、だいたいこんな話をしてくれた。

ご存じの方も多いと思うが、これは『日本書紀』の神武紀に記された「丹生川上」の逸話である。それが、小の土地にまつわる形で話されている。小には、明治17年(1884)の『大和國吉野郡小村 村誌』が残り(隅田つや子蔵。明治期に県に提出した村誌の控えか。現在は所在不明)、見ると、あちこちに『日本書紀』と同じ表現がある。書物の知識や学者の考証が、幕末か近代に根付いたものと判断し、あまり関心を払わずにいたのだが、話を集めるうち、三尾の西上次郎氏〈大正3年(1914)年生〉から次のような話を聞いて驚いた。


魚見石ちゅうて、この戦が負けるか勝つかていう、その、魚見石。小にありましょ。だから、あそこで、セギ(堰)をこしらえてね。片半分アミゴ(アマゴ)か鮎か知らんけれども、片半分、まあ、焼いたやつをね。このセギから上へ、これが上がっておったらこの戦が勝つし、このセギから下へ向いて、よう上がらん場合には、上がっとらん場合には、この、あの戦が負けるということで。まあ、そら、事実か事実でないかねえ。その時の、まあ、魚見石ていう。で、その、あそこでセギをこしらえて、そういうな魚を流したていう。あそこの下へ向いてね。ま、それが上へ向いて、セギを越えて上へ上がって来た。だから、この戦は勝つと。ほして、3、7、21日の祈願を込められて、その魚見石で。その戦が勝つか負けるかていうところの、その…した時に、その魚が上へ上がっておったということでもって、どんどん、どんどんと攻められたといいますな。 


外来の貴人や高僧が、料理された魚を流すと生き返ったという伝説は日本各地にある。有名な例をあげると、新潟では親鸞上人。高野山では弘法大師。伊丹市の昆陽池では行基上人。松山市では、やはり弘法大師等々。各地に類例があることから、この形の「魚見石」が、長く民間で伝わってきた話と考えられる。主人公も、もとは近くの神宮寺に関わる高僧だっただろう。さらに付近で調べると、新しい魚見石以外に古い魚見石の話も聴いたという人、断片ながら、「魚が泳いだのを見た石」というように、「丹生川上」とは矛盾する話を伝える人もいた。こうした民間の伝説が、『日本書紀』の話へと置き換わったのである。

現在、小には一帯の氏神「丹生川上神社中社」が鎮座する。実は、近世には、同社は「蟻通神社」と呼ばれ、摂社に丹生神社があった。丹生川上神社は延喜式の式内社で、古代には確かに吉野地方に存在したのだが、近世には所在不明になっていた。王政復古の明治になると、いにしえの式内社を再興しなければならなくなり、3箇所の候補地が名乗りをあげる。さらに丹生川上神社は「丹生川上」だという説があり、近代の国家シンボル神武天皇顕彰地の争奪戦にもなった。蟻通神社こそ丹生川上神社だとする東吉野出身の研究者森口奈良吉は、精力的な考証と運動を続け、決定済みの下市町の丹生川上神社(下社)、川上村の丹生川上神社(上社)に加え、大正11年、郷社だった蟻通神社も丹生川上神社(中社)だと時の政府に認めさせた。氏神の改称と式内社昇格は村人を沸き立たせ、さらに昭和15年(1940)、神武紀元2600年を記念して調査・制定が進んでいた神武聖蹟「丹生川上」にも決定される。こうして高僧の奇蹟を語っていた「魚見石」は、神武天皇の物語へと組み込まれた。小の「魚見石」は、こうした興味深い地域の近代を物語る文化遺産でもある。

〈参考〉齊籐純「記憶の変貌—魚見石の伝説から—」小松和彦編『記憶する民俗社会』人文書院 2000 

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