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 【生涯学習】

《公開講座記録》【大和学への招待】地域社会のなかの陵墓

第3回 ● 平成26年5月3日(土) 午後1:30
テーマ ● 地域社会のなかの陵墓
講 師 ●  谷山 正道 歴史文化学科教授

内容

はじめに
「御一新」に先立って行われた「文久の修陵」は、それまでの陵墓の姿を大きく変えるものでした。本講義では、この事業の実施背景と修陵の有様、周辺地域住民への影響について述べるとともに、「隍水」の利用という問題を中心に、その後の陵墓と周辺村落との関係について論じました。なお、陵墓研究へのアプローチの仕方には、様々な方法がありますが、ここでは「陵墓と地域社会」(地域住民にとっての陵墓)という観点から陵墓をめぐる問題にアプローチしました。

1 「文久の修陵」をめぐって

① 修陵事業の実施背景

幕末のわが国では、欧米列強の進出という国際的環境のもとで、朝廷の政治権力化が進むようになるとともに、長州藩や薩摩藩などの雄藩も台頭するようになりました(この後、明治維新に向けての政局は、幕府と朝廷と雄藩との「バランスオブパワー」のなかで動いていくことになります)。

万延元年(1860)に大老井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後、幕政を主導するようになった老中安藤信正は、公武合体(朝廷との融和)により幕府の権威回復をはかろうとして、和宮の降嫁を実現しましたが、文久2年(1862)正月に起きた「坂下門外の変」により負傷し、4月に老中を退きました。その翌月に、薩摩藩の島津久光(藩主忠義の実父)は、勅使大原重徳を伴って江戸に赴いて、幕政の改革を要求し、これに応じた幕府は、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に任じるとともに、「国政」についての意見を諸大名に求めることになったのです。

これを受けて、宇都宮藩主戸田忠恕は、文久2年(1862)閏8月に「山陵修築の建白書」を幕府に提出しました(宇都宮は、陵墓を調査して『山陵志』を著した蒲生君平〔1768~1813〕の出身地でもありました)。これは、「官武御一和」をはかり、幕府の「御武威」を高める具体策として、提示されたものであり、この献策は幕府によって認可されるところとなりました。また、朝廷の側でもこれを歓迎し、交渉の結果、費用は幕府が負担し、指示は朝廷(「山陵御用掛」)が行うという形で、「山陵奉行」に任命された宇都宮藩の家老戸田忠至を中心に、修陵事業が実施されることになったのです。陵墓の調査や、それなりの手当ては、それ以前(元禄・享保・文化・安政期)にも実施されていましたが、「文久の修陵」は、事業の規模・方法・内容において、これらとは明らかに一線を画するものでした。

② 修陵事業の実施方針と内容

修陵の実施に先立って、戸田忠至は、文久2年(1862)11月5日に京都を出立し、配下の宇都宮藩士や、「調方」に任命した谷森善臣をはじめとする地元の陵墓研究家ら(砂川健次郎・平塚瓢斎・中条良蔵・北浦定政・岡本桃里ほか)とともに、約1か月にわたって畿内の陵墓の巡検を行いました。
その時、彼が目の当たりにしたのは、「御陵之頂ニ麦作其外作物ヲ仕付、養ヒ之為メ不浄ヲ掛、又は御陵ヲ破リ御石棺暴露仕候所も許多有之、御陵之上ニ庶人之墓所有之候処も相見へ、或ハ御石棺中へ水溜リ候御場所も有之、絶言語甚以奉恐入候御模様ニ御座候、右は全ク下民之心得違ヲ以開墾仕候義ニも無御座、御領・私領年貢地ニ相成居リ候由、村役人申聞候、一体御陵ヲ年貢ニ仕候義、筆端ニも難述不敬之仕第と奉存候」(『山陵修補綱要』)と、彼自身が書き留めているような、驚くべき光景でした。

修陵に際して、朝廷から「山陵奉行」に示された方針は、「各陵墓の兆域を定め、墳丘や周濠をあるべき本来の姿(「古制」)に戻す。墳丘や周濠部が耕作されている場合、年貢地になっているケースについては、幕府から替地をしてもらって引き上げるようにし、そうでないケースについては早々に引き上げ、修補に取りかかるようにせよ(但し、後者についても、耕作者の迷惑にならないよう、幕府に配慮してもらうように、相談に及ぶようにせよ)」というものでした。また、兆域内の社や堂、石灯籠や墓などの移転も命じられました。

修陵工事は、「神武陵」を皮切りに、文久3年(1863)5月から慶応元年(1865)9月にかけて、五畿内(大和・山城・摂津・河内・和泉)を対象に実施されました(一部、丹波・讃岐のケースも存在しました)。注目されるのは、「神武陵」の築造が最も重視されたことであり、そのために支出された金額は、「文久の修陵」に際して幕府から支給された7万3814両余のうち、1万3759両余にものぼっていました。神武天皇は、記紀に記された神話上の存在ですが、「万世一系」とされる天皇の、初代にふさわしい陵墓が「創出」されたと言うことができるでしょう。なお、「崇神陵」と「光仁陵」の修陵は、出願により、それぞれ柳本藩・津藩によって実施されたことも付言しておきます。

修陵による各陵墓の変貌ぶりについては、『文久山陵図』(新人物往来社、2005年)に掲載されている「荒蕪」図(修陵前の図)と「成功」図(修陵後の図)とを対比することによって、如実にうかがうことができます。また、修陵に際しては、各陵墓の治定が行われ、各陵墓に拝所(奉幣使が祭祀を行うための場所で、鳥居や木戸が設けられ柵で囲まれた)が設置されるとともに、尊号を刻んだ石標が立てられるようになりました(ここでは、「神武陵」と「崇神陵」「景行陵」の治定の経緯についても述べましたが、省略します)。

※以下、講演録が長くなりますので、全体はPDFファイルをご覧ください。

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