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 【リレーエッセイ 感染症と人類18】

明治12年のコレラ会議とコロナ禍の学校保健

高橋裕子 教授(体育学部体育学科:学校保健、学校保健史)

2020年に新型コロナウイルス感染症の流行が拡大してから、学校保健の役割が大きくクローズアップされています。学校保健とは、学校で行う保健管理と保健教育のことで、明治政府が初めてその法整備に着手したのは、130年も前のことです。今は、学校保健安全法において、感染症予防や定期健康診断を行うといった、具体的な管理項目が規定されています。

現在、全国の学校では、死亡リスクさえある新感染症を予防しながら、いかに学習を保証するかが喫緊の課題となっていますが、こうした感染予防と教育の推進とは、いわゆるトレードオフの関係にあります。このジレンマに直面するなかで、さまざまな考えがあぶり出され、健康権にもかかわる問題が顕在化しているようにも思います。ここで忘れてならないのは、こうした問題が、学校保健の歴史ではずっと以前から議論されていたという点です。

たとえば、明治期に創設された興風(こうふう)学校の学校日誌に記録されています。興風学校は、近代国民教育の出発点となった学制が公布された明治5年(1872)の10月に創設された「時習館」を起源とする小学校で、現在は岐阜県中津川市立南小学校となっています。これまでも教育史研究から取りあげられ、また、島崎藤村の『夜明け前』の舞台としての中津川地域は、明治維新史研究からも関心が持たれてきました。

興風学校が教育史研究から注目された理由の一つは、創設以来の学校日誌が現存しているからです。小林廉作という教員が書いた日誌には、校務のほか、節目ごとの学習の進捗状況や、今回取り上げる会議録、さらには彼が出来事を敷衍する付記・欄外註などが細かに記されています。小林家は、もともと木曽代官山村家の家人で、廉作はその七代目つまり士族で、そこから中津川に移住し、教員の中核として学校創設を担い、明治33年(1900)に死去するまで同校の校長・教員であり続けました。

小林廉作記の学校日誌をめくると、日本がコレラ大流行に見舞われた明治12年(1879)の9月3日に会議を開き、中津川近郊に迫るコレラへの対応を話し合った内容が記されています(図1)。出席者は、学校管理者の市岡政香と肥田通一、さらに小林廉作を含む教員7名と推定されます。議題は‘万一、本校の生徒から発病者が出れば大害をこうむるから、当分の間「閉校」としたいがこれは適当か’です。会議は基本的に、閉校反対(教育優先)派と閉校賛成(衛生優先)派の間で争われています。閉校反対派の意見から見てみましょう。

「禍を未然に防御する」のはもちろんだが、まだ近隣に「激烈の感染者」もなく、当校は「空気流通の場所」だ、もし「閉校」すれば「自然生員の懶怠を生し、随て何分の弊」を生ずる、つまり生徒が怠けてしまう、ゆえに午前中だけ授業し、新鮮な空気の学校で過ごせば被害はないだろうと述べています。

日誌の記録者でもある小林廉作は、この場面を敷衍して次のように付記しています。閉校反対の意見は教育熱心ゆえのもので、たしかに本校は予防の行き届かない学校ではなく、近郊で激烈な伝染があったわけではない、「防御」して教育すれば「怠惰」を防げる、「学術」が進むのと後退するのではその差は大である。つまり、小林廉作は閉校反対の意見にも肯きながら、予防の可能性と学習の進退とを思案しているのです。

一方の閉校賛成派には二つの根拠があり、その一つは衛生です。学校では、一人でも患者が出れば全員に感染する、だから各家庭の「父兄の保護」下で予防するのが最もよいと述べて、隔離が予防の大原則と考えています。これにも小林廉作は敷衍して、「怠惰」はもちろん「掛念」されるが、そもそも授業をして進歩を促すのが我々の「素志」であった、だが多くの生徒に被害が及ぶとまで言われば、必ず予防できるとはとても言えない、だから閉校に賛成したのだ、そう記しています。

閉校賛成派の二つ目の根拠は、「怠惰は後に醫(いや)す可し」、つまり「閉校」して遅れた学習は後日の指導で取り戻せるではないかという考えです。この発言は、子ども観と衛生観が現れるきわめて興味深い一声と言えます。「怠惰」は一旦習慣化されても指導で取り戻せる、つまり、子どもは理解力と柔軟性ある存在と考える一方で、死亡率の高いコレラに罹れば取り返しがつかない致命的事態だ、ゆえに予防が最優先と考えているからです。

衛生と教育の両立、あるいは、教育のための衛生とも言えるこの見方は、現代の学校保健に通じる考えではないでしょうか。冒頭で触れた、現在の学校保健安全法の目的は「学校教育の円滑な実施とその成果の確保に資する」だからです。明治12年の興風学校では、現在の学校保健理念に極めて近い議論があったのです。

【参考文献】
仲 新  『明治初期の教育政策と地方への定着』講談社、1962年。
梅村佳代「豪農民権地域における民衆の公教育組織化運動について」『季刊教育運動研究』創刊号、1976年。
宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』岩波書店、1999年。
酒井シズ『病が語る日本史』講談社、2008年。
高橋裕子『明治期地域学校衛生史研究』学術出版社、2014年。
図1 明治12年9月3日のコレラ会議の記録。左頁の6から7行目にかけて「怠惰は後に醫(いや)す可し」とある。 「第参號 明治十二年六月十六日ヨリ 興風学校日誌」小林廉作記(中津川市立南小学校所蔵)
図1 明治12年9月3日のコレラ会議の記録。左頁の6から7行目にかけて「怠惰は後に醫(いや)す可し」とある。 「第参號 明治十二年六月十六日ヨリ 興風学校日誌」小林廉作記(中津川市立南小学校所蔵)

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