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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待】第4回 浦上キリシタンの配流と郡山

第4回
●2019年10月5日(土) 午後1:30
●テーマ: 浦上キリシタンの配流と郡山
●講師  谷山 正道
 元天理大学文学部教授、公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会研究員

内容

はじめに

高等学校の歴史教科書には、明治初期に起きた「浦上教徒弾圧事件」について、「キリスト教に対しては、新政府は旧幕府同様の禁教政策を継続し、長崎の浦上や五島列島の隠れキリシタンが迫害を受けた。しかし、列国の強い抗議を受け、1873(明治6)年、ようやくキリスト教禁止の高札が撤廃され、キリスト教は黙認された」、「浦上のキリシタンは、1865(慶応元)年、大浦天主堂の落成を機にここを訪ねたフランス人宣教師に信仰を告白して明るみに出た。しかし、新政府は神道国教化の政策をとり、浦上の信徒を捕え、各藩に配流した(浦上教徒弾圧事件)」という記述が見られる(『詳説日本史 B』、山川出版社)。

長崎で捕縛された3400人近くの浦上キリシタンは、新政府の指示により名古屋以西の20藩(津和野藩以外は10万石以上の大藩)へ送られ、改宗を迫られることになった。
配流先には、大和の郡山藩も含まれており、当地へは計86人が送られてきた。明治2年(1869)の年末のことで、今年はそれから150年という節目の年にあたる。

本講座では、幕末維新期のわが国と欧米列強との関係を見据えながら、①多数の浦上キリシタンが捕縛され各地へ配流されることになった経緯、②信徒に対する郡山藩の処遇のあり方(当地での信徒の様子)、③キリスト教禁止の高札が撤廃されるに至った経緯について話した。なお、②については、(史料が豊富に残っているわけではないが)関係史料の紹介につとめ、③に関しては、「廃藩置県」という要素も視野に入れながら考察した。
以下、当日の内容レジュメを掲げておきます。  

1 「信徒の発見」

○ 近世の「鎖国」体制・・・幕府による貿易統制とキリシタン禁制。

○ 開国から開港へ・・・産業革命を背景とした欧米列強の東アジアへの進出、嘉永6年(1853)のペリー来航と翌年の和親条約の締結、安政5年(1858)の通商条約の締結。

○ 通商条約と宗教問題・・・「日本にある亜墨利加人、自ら其国の宗法を念し、礼拝堂を居留場の内に置も障りなく、并に其建物を破壊し、亜墨加人宗法を自ら念するを妨る事なし、亜墨利加人、日本人の堂宮を毀傷する事なく、又決して日本神仏の礼拝を妨け、神躰仏像を毀る事あるへからす、双方の人民互に宗旨に付ての争論あるべからず、日本長崎役所に於て踏絵の仕来りは既に廃せり」(「日米修好通商条約」第8条)、外国人の居留地外での宗教活動は禁止、日本人のキリスト教信仰に関する禁制は継続。

○ 長崎での大浦天主堂の建立・・・プティジャン神父(パリ外国宣教会のカトリック司祭)がフューレ神父の跡を承けて元治2年(1865)に建立(フランス寺と称される)。

○ 長崎近傍の浦上村・・・キリシタン大名大村純忠の旧領、隠れキリシタンの里(寺檀制度の導入に伴って聖徳寺〔浄土宗〕の檀徒となったが密かに信仰を継続)、キリシタン検挙事件の発生(寛政3年〔1791〕の「一番崩れ」、天保10年〔1791〕の「二番崩れ」、安政3年〔1856〕の「三番崩れ」)。

○「信徒の発見」・・・浦上村浜口の(杉本)ゆりら15人ほどがフランス寺を訪れプティジャン神父に信仰を表白(「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」)、1865年3月17日のことで「東洋の奇跡」として世界のキリスト教徒に衝撃と感動を与える。

○「浦上四番崩れ」・・・浦上村の信徒たちが檀那寺(聖徳寺)に届けずに自分たちで勝手に葬儀を行うという事件をきっかけにキリシタンの存在が発覚、慶応3年(1867)6月に長崎奉行所が主だった信徒68人を捕縛、入牢者に対する苛酷な処遇、各国領事(特にフランス)からの釈放要求、9月14日までに全員出牢(幕府とフランスとの関係もあって徹底的な取り締まりには至らず)。

2 新政府の宗教政策と浦上キリシタンの配流

○ 新政府の成立・・・慶応3年(1867)10月14日に行われた大政奉還の後、討幕派は12月9日にクーデターを決行して「王政復古の大号令」を発し新政府を樹立(その後の政情は不安定で、翌年1月から1年半近くにわたって内戦が続く)。

○ 新政府の宗教政策・・・王政復古による祭政一致の立場から、慶応4年(1868)3月に「神仏分離令」を発して旧来の神仏習合を禁じるとともに、明治3年(1870)に「大教宣布の詔」を発するなど、神道による国民教化の推進をはかる。

○ 慶応4年(1868)3月の「五榜の掲示」・・・「五箇条の誓文」(公議世論の尊重と開国和親など新政府の国策の基本を示し天皇親政を強調)公布の翌日に掲示、儒教的道徳を奨励するとともに徒党・強訴・逃散やキリスト教を禁止(旧幕府の民衆統制策を継承)、「第三札」で「切支丹邪宗門」を「制禁」(外国公使からの抗議に対応して、閏4月4日の太政官布告で文面を一部変更、「切支丹宗門」と「邪宗門」との区分)。

○ 浦上村の状況・・・慶応4年(1868)4月の長崎裁判所からの上申書の記述内容。

○ 新政府による対応策の策定・・・新政府による議案の作成と藩主らへの諮問(4月22日)、各藩主(郡山藩主柳澤保申を含む)からの意見書の提出(4月23日)、政府による浦上キリシタンの配流案の策定と関係各藩への通達(閏4月18日)。

※ 信徒の取り扱いに関する5か条にわたる通達・・・①「右宗門元来御国禁不容易事ニ付、御預ノ上ハ人事ヲ尽シ、懇切ニ教諭致シ、良民ニ立戻リ候様厚ク可取扱候、若シ悔悟不仕者ハ不得止可被処厳刑候間、此趣相心得、改心ノ目途不相立者ハ可届出事」、②「改心ノ廉相立候迄ハ、住人トハ屹度絶交ノ事」、③「開発地土工・金工或ハ石炭堀、其外夫役等勝手ニ可召使事」、④「山村ニ住居可為致事」、⑤「当日ヨリ先ツ三ヶ年ノ間、一人ニ付扶持何程カツヽ其藩々へ被下候事」。

○ 浦上キリシタンの第一次配流・・・長崎に赴いた政府の参与木戸孝允と長崎裁判所総督の沢宣嘉らが協議、信徒の中心人物と目された114人(全員男子)を捕縛して山口(66人)・津和野(28人)・福山(20人)の3藩へ配流(5月22日に長崎を出帆)、信徒に対する苛酷な取り扱いと各国公使らによる抗議。

※ 取り消しになった閏4月18日付の各藩への配流案・・・6月に郡山藩主へも通達あり。

○ 浦上キリシタンの第二次配流(総配流)・・・明治2年(1869)5月に戊辰戦争が終結、公儀所の会議でキリシタンに対する処分はするが厳刑(死罪)は行わないことを決議、その後浦上キリシタンの総配流に向けての準備(各藩への配流案の再策定と信徒の取り扱いに関する方針の再検討など)を進め、12月に3400人近くを計20藩(郡山藩を含む)に配流。

※ 関係各藩への信徒の取り扱いに関する10月の通達・・・①「御預之者共従来支配地人民同様懇々撫育シ、開墾土工金工其外夫役ニ召仕、相応産業ニ基候様可取扱事」、②「異宗信仰ヲ厳禁シ、人事ヲ尽シ教諭ヲ加へ、良民ニ復シ候様精々教化可致事」、③「御預人引取方、来ル十一月二十五日後ハ何時モ差支無之様手当可致置候事、但御預藩々最寄便宜ノ港迄長崎県ヨリ護送可ニ付、掛合次第速ニ請取ノ者可差出候事」、④「諸費ハ藩用ヲ以テ可取賄、尤漸次産業ニ基キ公費無之様処分可致候事」。

※ 配流に反対する列国への説明(理由づけ)・・・明治3年(1870)1月の関係史料参照。

3 郡山へ流された信徒と郡山藩の処遇

○ 長崎から郡山への「旅」・・・明治2年(1869)12月、『旅の話』の記載。

○ 郡山へ移された信徒たち・・・明治4年(1871)6月「異宗門人員帳」の記載。

※ 郡山藩が預かった「異宗」徒は計86人(男39人・女47人)・・・うち10人は明治2年(1869)12月12日に、76人は12月26日に大坂で「請取」。

※ 浦上村での居住地・・・いずれも本原郷、「字一本木」(19家族)、「字平」(1家族)、「字船渡」(2家族)、「字前河内」(1家族)、「字道上」(1家族)。

※ 「家族揃」は24家族のうち13家族。

※ 郡山での死亡者は4人・・・忠八(明治3年2月15日に78歳で死去、雲幻寺に仮埋)、もと(同年2月29日に13歳で死去、雲幻寺に仮埋)、ふし(同年7月27日に39歳で死去、雲幻寺に仮埋)、惣平(同年11月20日に47歳で死去、新木村墓所に仮埋)。

※ 郡山での出生者は1人・・・源三郎(明治3年2月27日に出生)。

※ 83人全員が「不改心」。

○ 信徒の収容先・・・明治2年(1869)12月に雲幻寺(良玄禅寺)へ収容したの
ち3年(1870)3月頃に「金崎と云ふ二階建の立派な旅館」(場所不明)へ移し、 同年10月頃に4か所(柳町2丁目・柳町3丁目・魚町・綿町の「元会所」)に分配。なお、4年(1871)6月に外務権大丞楠本正隆が来訪した後、今後「改心之者」が出た場合には、「柳町・藺町二ヶ所」の「会所」へ収容すると報告している。

※ それぞれの場所については、三俣俊二氏の労作を参照。

○ 信徒に対する郡山藩の処遇・・・明治4年(1871)6月の楠本正隆巡察時の状況と楠本の指示にもとづく対応、「都而取扱向之儀ハ、居内出入・湯屋往来等随意ニ致させ、処分寛ニ過キ、取締不都合之廉も有之候」という楠本の受けとめ。

※ 外務権大丞楠本正隆・中野健明の巡察・・・北陸の藩に預けられている信徒が残酷な取り扱いを受けているという外字新聞の報道とイギリス公使からの抗議が引き金、信徒を預かっている各藩を訪れて信徒に対する処遇の統一化と改善をめざす。

※ 『旅の話』には、「信徒中の硬骨漢」の収監などに関する記載が見られる。

※ 髙瀬道常の『大日記』に、「郡山ニ長崎辺耶蘇之者八十人計預り、此節男ハ人足ヲ働居候よし」という、明治3年(1870)6月頃の記事が見られる。

※ 郡山藩の場合、受入信徒86人のうち明治4年(1871)6月までの死亡者は4人で、死亡率4・7パーセントという数値は、20藩のなかで最も低かった(全体の平均値は18・1パーセントで、最も高かったのは和歌山藩の33・8パーセント)。また、脱走者もなかった。

※ 郡山藩の場合、改心者は皆無であった。

4 廃藩置県後の動向

○ 統一奈良県の成立と信徒に対する処遇・・・明治4年(1871)11月に統一奈良県が成立(郡山には出張所を設置)、5年4月に「奈良県郡山出張所」から「異宗人」(女性)の「日稼働」についての「廻達」、5年5月に古市(元津藩城和奉行所の所在地)で収容されていた信徒26人を郡山へ移送(三の丸で収容)、5年5月の『日新記聞』3号の記事(「県庁ニ於テ異宗ノ徒ヲシテ新道ヲ開カシムト云噂アリ、又徒刑人ヲ以テ鉱山ヲ稼カシムト云コトモアリ」)、『旅の話』の記載(5年12月に12歳~20歳の男女は奈良の大仏付近へ移され、他の者は「天ノ川」の鉱山へ)、髙瀬道常『大日記』の記事(「十津川郷銅山」での労働と「弐拾才計以下の女子」を改心させるための策略)。

※『旅の話』に記されている「天ノ川」の鉱山での労役・・・明治4年(1871)10月に五代友厚が稼業権を取得した吉野郡天川郷和田村の「天和銅山」か(←薩摩出身の奈良県令税所篤〔4年11月~6年11月在職〕と五代との関係)。

○ 信徒の帰還・・・改心者の帰還公認(明治5年2月)から不改心者の帰還公認(6年3月)へ、改心帰還者は計1022人で不改心帰還者は計1883人(このほか逃亡及び残留20人、死亡664人、生児175人)、信徒の放還政策実施に至る要因(欧米列国からの抗議、条約改正交渉上の障壁、改心を拒み続ける多くの信徒たち、県の負担となった経費)。

※ 奈良県内に配流されていた信徒も全員が解放され、6年5月30日に浦上に帰着。

○ キリスト教禁止の高札の撤去・・・明治6年(1873)2月24日に布告、新政府によるキリスト教の黙認(→信教の自由の公認は同22年〔1889〕2月11日に発布された「大日本帝国憲法」による)、宣教師による日本人に対する布教活動の推進。

おわりに

○ 郡山に残る記念碑(「切支丹流配碑」)・・・大正15年(1926)7月にヴィリオン神父が雲幻寺境内に建立、当地で死没した信徒の慰霊(刻まれている洗礼名と俗名)、配流から100年にあたる昭和44年(1969)の11月3日にカトリック大和郡山教会の前庭へ移転(毎年11月3日にミサが行われている)。

○「浦上信徒郡山流配150周年」を期して企画されているイベント

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