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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待】第3回 旧大和郡山藩領の寺社と地域社会

第3回
●2019年9月28日(土) 午後1:30
●テーマ: 旧大和郡山藩領の寺社と地域社会
●講師  奥本 武裕
 公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会調査員、奈良県立同和問題関係資料センター所長

内容

公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会は、郡山藩政史・郡山藩領地域史の調査研究プロジェクトとして「郡山藩及び郡山藩領調査研究会」を組織し、旧藩領内の諸地域に残された古文書など歴史資料の調査・研究を行っています。平成26年度から同28年度までは、柳沢時代の郡山藩領内の寺社史料に関する史料調査を行い、その成果を同29年(2017)3月に『郡山藩及び郡山藩領調査研究会報告書第一集 社寺一(浄土真宗・融通念仏宗)』として刊行しました。

柳沢吉里が入部した享保9年(1724)には、大和国の郡山藩領は石高78,750石、村数145か村で、寺院398寺、神社142社がありました(同年「和州・河州寺社鑑」柳沢文庫蔵)。今回のプロジェクトでは、このうち浄土真宗寺院(140寺中34寺)・融通念仏宗寺院(38寺中23寺)を中心に、他宗派の寺院12寺、神社10社を加えた史料調査を行いました。

浄土真宗寺院、融通念仏宗寺院の分布には地域偏差があり、添下郡・平群郡などでは浄土真宗と融通念仏宗が拮抗しますが、葛下郡・広瀬郡など浄土真宗寺院が優勢となっています。こうした偏差は両宗派の奈良盆地への展開過程によって生じたものと考えられ、その解明が大きな課題となります。

郡山城下町の寺院の多くは、城下町の整備や城主の転封にともなって、新たに創建された寺院や、他地域から移転してきた寺院で、城下町内で寺地を移転している寺院もあります。また、浄土真宗寺院の場合、東本願寺から西本願寺に転派している寺院も複数存在し、現在見ることができるような城下町の寺院の配置は、比較的長い期間をかけて形成されたものであることがわかります。

城下町所在寺院のうち、今井町の光慶寺(浄土真宗本願寺派)は、江戸時代には大和国内外に40寺に及ぶ下寺を有するとともに、郡山藩と西本願寺の間を取り持つとともに、藩領内の西本願寺末寺院を管轄する「役寺」をつとめた有力寺院でしたが、残された史料からその成立過程をある程度解明することができました。光慶寺はもと山城国久世郡岩田村(現京都府八幡市)に所在する「岩田門徒」と呼ばれる門徒集団でしたが、15世紀末には大和国各地にその影響が及んでいました。

また、藩領内の寺院では広瀬郡箸尾(現広陵町)の教行寺(真宗大谷派)が、「五箇寺」とよばれる東本願寺教団の最有力寺院で、大和国内外に60寺を越える下寺を持っていました。摂津国富田に所在した教行寺は、享禄5年(天文元・1532)に蜂起した天文一向一揆を契機に「百済門徒」と呼ばれる門徒集団を吸収することで大和国内に大きな影響力を持つに至りました。

「百済門徒」は、広瀬郡百済(現広陵町)を中心とする浄土真宗門徒集団で、15世紀後半までには大和国内に広く展開していたと考えられます。「百済門徒」のうち天文一向一揆の中心となったのは添下郡北部の門徒たちで、この地域には、先の光慶寺門徒もほぼ同時期に展開していました。
これらのことをふまえれば、これまでほとんど注目されてこなかった添下郡北部の浄土真宗門徒が果たした役割の大きさを認識する必要がありますが、その始原についてはなお未解明であり、今後の課題としていきたいと考えています。

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