宗教学科 オリジナルコラム−「イスラモフォビア」の高まりに思う(2015年2月8日号)
今回の、いわゆる「イスラム国」による日本人人質事件の悲劇的な結末は、過激派組織による残忍な行為が、「平和主義国家」日本にとっても決して対岸の火事ではないことを示す結果となった。
この状況下でイスラムについて語ることは難しい。だが、パリの新聞社襲撃事件と併せ、欧米諸国はもとより、日本においても「イスラモフォビア」(イスラム教嫌悪)のさらなる高まりが懸念される。むしろ、こうした状況下だからこそ、あらためて宗教としてのイスラムについて、冷静に考えてみる必要があるだろう。
「イスラム国」を名乗る過激派組織と、世界の大多数のムスリム(イスラム教信者)の信仰生活との違いは歴然としている。
このことは、中東から遠く離れた、ムスリム人口もいまだ限定的な国で生きる私たちに日本人には理解に難いことかもしれない。だが、もしもあのような剥き出しの暴力がこの宗教の本質にあるとするならば、そもそもムスリムの人口が今日のようなグルーバルな広がりを見せることはまずあり得なかっただろう。大多数のムスリムは、日本を含む中東以外の国々においても、それぞれ国や土地の文化の中で“隣人”として平和に共存してきた人々なのである。
歴史的に見ても、イスラム教が他宗教に対して寛容な姿勢で臨んできたことはよく知られている。たとえば8世紀半ばに生まれたイスラム帝国アッバース朝では、諸税を納めた異教徒がイスラム教信仰を強要されることは基本的になかった。また、13世紀末に生まれたオスマン帝国では、人頭税を払ったユダヤ教徒、アルメニア教徒、ギリシア正教徒は、自治の許可さえも得ていたのである。
歴史の常として、もちろんそこには例外もあっただろう。とはいえ、たとえばキリスト教の歴史にしばしば見られる“非寛容”な態度と比較した場合、イスラム教が持つ寛容の伝統は、やはり際立っていると見るのが公正であろう。
他宗教に対するイスラム教のこうした姿勢は、この宗教が歴史の中で培ってきた“知恵”である。そしてそれは、まさに今日の世界の大多数のイスラム教徒によって受け継がれている“精神”でもあるのだ。
しかしいま、こうした言葉がさして説得力を持たないのだとすれば、さらに付け加えてみたい。浅薄な先入観からイスラム教信仰それ自体に“悪”のレッテルを貼ることは、少なくともその思考論理としては、過激派組織が奉じる“善・悪二元論”と同型の固定観念にはまり込むことを意味するのではないだろうか。
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