宗教学科 オリジナルコラム−“見せる宗教”としての英国国教会(2013年11月17日号)
10月23日、英国王室のウィリアム王子とキャサリン妃の第一子・ジョージ王子の洗礼式が、ロンドンのセントジェームズ礼拝堂で行われた。洗礼を施したのは、英国国教会のウェルビー・カンタベリー大主教である。
多くの日本人にとって英国国教会は、伝統的なキリスト教会の中でも、なじみの薄いものの一つだろう。
そもそも国教会は、16世紀中ごろ、当時の国王・ヘンリー8世の離婚問題を契機にカトリックから独立した教会である。
ヘンリー8世は、正妃・キャサリンとの離婚を望んでいたが、教義上、離婚を認めないカトリック教会のローマ法王によって却下された。そこでヘンリー8世は、自らイングランド教会の首長の座に就いたのである。
その後、紆余曲折を経て、ヘンリー8世の娘・エリザベス1世の時代に、イングランド教会はカトリック教会から正式に分離する。
つまり、英国国教会は、ルター派やカルヴァン派のような神学的な主導によるものではなく、国家的・政治的方針によって独立した教会である。したがって、英国国教会はプロテスタントに大別されるものの、教義や儀礼の側面では、カトリック的な要素を色濃く残している。
興味深いことに、こうしたカトリックと英国国教会との類似性は、今日的な意味合いも持ち併せている。というのも、いずれの伝統も、いわば“見せる宗教”としての性格を色濃く持っているからである。
前回の本欄でも触れたように、カトリック教会に対するメディアの注目度は極めて高い。法王庁という組織やその壮麗な儀礼文化は、一見、古色蒼然たるものにも見えるが、一方で、それはグローバルなメディアを通じての“臨場感”を与えることにも長けているのである。
同様のことが英国国教会にも言える。しかも、未来の国王となる王子の洗礼式ともなれば、なおさらである。その意味では、英国国教会もカトリック教会同様に、“見せる宗教”と言えるだろう。これは、牧師の説教が大きな位置を占める他のプロテスタント諸宗派が“聴く宗教”であることと、対照的である。
メディア的な観点からすれば、英国国教会にとっての英国王室は、まさにカトリック教会における法王庁と同様の機能を、遺憾なく発揮していると言えるかもしれない。
多くの日本人にとって英国国教会は、伝統的なキリスト教会の中でも、なじみの薄いものの一つだろう。
そもそも国教会は、16世紀中ごろ、当時の国王・ヘンリー8世の離婚問題を契機にカトリックから独立した教会である。
ヘンリー8世は、正妃・キャサリンとの離婚を望んでいたが、教義上、離婚を認めないカトリック教会のローマ法王によって却下された。そこでヘンリー8世は、自らイングランド教会の首長の座に就いたのである。
その後、紆余曲折を経て、ヘンリー8世の娘・エリザベス1世の時代に、イングランド教会はカトリック教会から正式に分離する。
つまり、英国国教会は、ルター派やカルヴァン派のような神学的な主導によるものではなく、国家的・政治的方針によって独立した教会である。したがって、英国国教会はプロテスタントに大別されるものの、教義や儀礼の側面では、カトリック的な要素を色濃く残している。
興味深いことに、こうしたカトリックと英国国教会との類似性は、今日的な意味合いも持ち併せている。というのも、いずれの伝統も、いわば“見せる宗教”としての性格を色濃く持っているからである。
前回の本欄でも触れたように、カトリック教会に対するメディアの注目度は極めて高い。法王庁という組織やその壮麗な儀礼文化は、一見、古色蒼然たるものにも見えるが、一方で、それはグローバルなメディアを通じての“臨場感”を与えることにも長けているのである。
同様のことが英国国教会にも言える。しかも、未来の国王となる王子の洗礼式ともなれば、なおさらである。その意味では、英国国教会もカトリック教会同様に、“見せる宗教”と言えるだろう。これは、牧師の説教が大きな位置を占める他のプロテスタント諸宗派が“聴く宗教”であることと、対照的である。
メディア的な観点からすれば、英国国教会にとっての英国王室は、まさにカトリック教会における法王庁と同様の機能を、遺憾なく発揮していると言えるかもしれない。
関連リンク