《公開講座記録》【「大和学」への招待 -郡山の歴史と文化2-】第1講 秀長のまちづくり・くにづくり 2026.02.02 歴史文化学科社会連携生涯学習公開講座記録 # 公開講座

《公開講座記録》【「大和学」への招待 -郡山の歴史と文化2-】第2講

●2025年12月14日(日) 午後1:00
●テーマ:「秀長のまちづくり・くにづくり」
●講師  天野 忠幸  (歴史文化学科 教授)

内容

 

 豊臣秀長の居城となった郡山城は、織田信長より大和の支配権を預け置かれた筒井順慶によって築かれました。その後、順慶の養子である筒井定次が伊賀へ国替となり、兄の秀吉より大和・紀伊・和泉を拝領した秀長のもとで、本格的なまちづくりが始まります。秀長の治めた郡山や大和を中心に、中世から近世へ、どのように社会が変化していったのかを紹介しました。

 最初に、秀長の評価の変遷を確認しました。江戸時代初期は豊臣氏の滅亡直後ということで、徳川氏への配慮からかマイナスイメージでした。しかし、秀長と共に戦った黒田官兵衛の福岡藩や藤堂高虎の津藩、そして錦絵では、秀長はプラスイメージで語られてきました。そして、近代歴史学の中で、厳格な兄の秀吉に対し、秀長は寛大な人柄で諸大名から慕われたとする評価が確定してきます。戦後の小説家である司馬遼太郎は、天性の調整家であり民政家として描き、堺屋太一が補佐役として位置づけ、好評を博したことを紹介しました。

 次に中世の大和の歴史的な特徴を見ました。つまり、大和には守護が設置されず、武士は守護ではなく、興福寺・春日大社を中心に結集していたことです。織田信長ですら尾張出身の家臣に大和を任せるもうまくいかず、結局、興福寺に結集する僧侶のまとめ役である官符衆徒棟梁の筒井順慶を起用します。この信長・順慶のもとで、郡山城は一領主の私宅ではなく公的城郭、つまり大和国主の政庁と位置付けられ、築城が始まりました。順慶は大阪平野の自治都市である平野の有力商人末吉勘兵衛に、郡山や大和での商売や徳政免除を保障し、経済振興を図ります。その結果、興福寺多聞院の英俊が、奈良ではなく、郡山で塩・魚・木綿・暦を購入するまで発展したことがわかります。

 その後、大和に入国した秀長は、寺社に対する検地を強力に推進する一方で、家臣の不正行為を厳しく取り締まる方針を示しました。春日若宮おん祭もそれまで奉仕していた大和武士がいなくなった中で、秀長が費用を負担する形で執行することとなり、江戸時代のおん祭のやり方の先例となりました。

 また、奈良での商売を禁止し、郡山でのみ認める政策を採ります。信長のように、奈良と郡山の座を廃止しました。天正16年(1588)には綿町・紺屋町・本町・今井町・奈良町・堺町・(いの)町・柳町・茶町・豆腐町・魚塩町・材木町・雑穀町の13町と本町の枝町である鍛冶屋町が確認されます。それぞれ同業者が集住し、秀長より商売上の特権を獲得しました。また今井町(浄土真宗寺内町)、奈良町(興福寺の商人)、堺町(自治都市、貿易港)からも、商人が誘致されます。こうした新住民をまとめあげる氏神として、多武峰から大織冠が遷されます。後陽成天皇も綸旨を発給しており、郡山の建設は正しく国家プロジェクトであったことがわかります。

 さらに郡山城・大坂城・聚楽第・淀城・大仏の建設費だけでなく、九州攻めなどの軍事費など負担が増す中、奈良盆地東部で大規模な灌漑工事に勤しみ、領主として勧農の責務を果たそうとしています。

 秀長の死後、郡山の都市特権が確認され、江戸時代の郡山の自治の基盤である箱本制度が整備されていきます。郡山の城主は、秀長の養子の秀保、増田長盛を経て、江戸時代には譜代大名が配されます。そして、江戸時代中期、甲斐国主の柳沢吉里(大身国持の松平甲斐守家)が入城します。柳沢家は畿内最大の城下町である郡山城主として、大坂・京都・奈良の守護という秀長以来の公的城郭の城主としての役割を継承しました。それに加え、柳沢保光が秀長の二百回忌を催し、大飢饉や打ちこわしが続く困難な状況下で、秀長を祀り人心をまとめようとしました。秀長の遺徳は生き続けたのです。

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