
《公開講座記録》【「大和学」への招待 -橿原市の歴史と文化-】第1回
●2025年10月4日(土) 午後2:00
●テーマ:「祝福された宮都 ―『万葉集』にみる藤原宮讃歌―」
●講師  大谷 歩  (国文学国語学科 講師)
内容
藤原京は、持統天皇8(694)年から和銅3(710)年の平城京遷都までの16年間、持統・文武・元明天皇の三代にわたって営まれた日本初の本格的な都城であった。『万葉集』には、新都の完成と共に訪れる新しい時代への期待と、都の永遠の繁栄を寿ぐ作品が収録されている(巻1・50~53番歌)。これらの作品をとおして、当時の人びとがこの新都をどのように祝福し讃美したのか、その方法を考察した。
1.藤原宮の役民(えのたみ)の作れる歌(巻1・50番歌)
この歌は、「役民」(藤原宮造営の労働に従事した民)の立場で詠まれている長歌である。この歌では、天皇が藤原の地に新都を造営すること、そのために木材を近江国の田上山から切り出し、宇治川、泉川(木津川)を利用して藤原へ運んだことが詠まれている。その木材の運搬に従事した民たちは、わが身を顧みず、一生懸命作業にあたったとうたわれている。加えて、「図(ふみ)負へるくすしき亀」(吉兆のしるしを背負った尊い亀)も現れたという。ここでは、天皇のために喜々として働く民の姿と、瑞祥の亀の出現に注目した。
古代中国では、瑞祥の亀は優れた徳のある王のもとに出現するという思想があり(『易経』繋辞伝・上など)、「図負へるくすしき亀」が出現したというのは、まさに持統天皇が聖天子であることを保証するものであった。
さらに『礼記』楽記には、民の「音」(人の心から生じ発する情のこもった声)は王の治世を反映するという思想が説かれている。たとえば、平和な世の「音」が安らかで楽しいのは王の政治が正しいためであり、乱れた世の「音」が怨みや怒りに満ちているのは王の政治が誤っているためである、という。
このことからすれば、50番歌の作者が「役民の歌」とされ、天皇のために喜んで働く民の姿が詠まれていることは、その政治が素晴らしいことの証明であり、それは民の歌によって保証されているということである。民が天皇のために喜んで働く姿、瑞祥の亀の出現、そしてそれが民の歌であることよって、新都を造営する天皇の徳が称賛されているのである。
2.藤原宮の御井の歌(舞1・52~53番歌)
52番歌は、藤原宮を囲む山々(香具山・畝傍山・耳成山・吉野山)の様子を通してその立地の素晴らしさと、宮の聖なる井戸を讃美し、都の永遠の繁栄を寿ぐ長歌である。宮の立地が素晴らしいということは、そのような場所を選んだ天皇も素晴らしいという讃美につながる。さらに、立派な宮殿を建てたとあり、宮殿の立派さは天皇の徳の高さの象徴でもある。そして、その素晴らしい山々と聖なる井戸がある宮殿の姿を詠むことで、この新都が理想の環境であることを讃美している。
反歌の53番歌では、井戸の水を汲む女性の様子が詠まれている。古代において水を汲むのは女性の仕事と捉えられており、神聖な役割と考えられていた。すなわち、聖なる女性が仕える場所であることをもって、井戸の水の神聖性を称えているといえる。そのような聖なる女性たちがいつまでもお仕えできるような永久の都であってほしい、という願いが込められている。
この歌では、宮を囲む山の姿と宮の立地、宮殿の荘厳さ、そして水の神聖性によって、新都と天皇が讃美されているといえる。
3.志貴皇子の歌(巻1・51番歌)
明日香宮より藤原宮に遷居りし後に、志貴皇子の作りませる御歌
采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
この歌は、「役民の歌」と「御井の歌」の間に配列されている歌である。志貴皇子は天智天皇の皇子で、生年不明だが、時代的に飛鳥で生まれ育ったと推測される。藤原宮への遷都により飛鳥が都でなくなることは、新しい時代の到来を痛感させられる出来事であったと推察される。飛鳥は、平城京の時代になってもなお人びとの心の故郷であり続けた場所である。遷都により、自分たちの生きた時代がさらに遠くなることへの愛惜・哀愁の情がこの歌にはある。「役民の歌」と「御井の歌」は、新しい時代へ向かう喜びや期待に満ちている一方、時代に取り残された感覚を持った人びとの哀愁や惜別の情を、志貴皇子が代弁したのではないだろうか。