《公開講座記録》【人文学へのいざない】第5回 「奈良町の町家―人の営みが歴史と建物をつくる」 2025.07.14 社会連携生涯学習公開講座記録 # 公開講座

《公開講座記録》【人文学へのいざない】第5回

●2025年6月21日(土) 午後1:30
●テーマ:「奈良町の町家―人の営みが歴史と建物をつくる」
●講師  田中 梨絵  (社会教育学科 講師)

内容

 

はじめに

 ウォーミングアップとして、豪華電車での奈良旅行をイメージして、グループで奈良のイメージを共有するゲームを行い、一般的な奈良市の観光ルートを紹介して、本題に移りました。

1、ならまちと奈良町

 奈良市の旧市街地である奈良町では一部のエリアが「ならまち」と表記されることがあります。平仮名での表記は、昭和の終わりから平成の始め頃に使われるようになりました。当時、元興寺の周辺一帯で町並み保存運動に伴いまちづくり活動が活発になり、「ならまち」と呼ばれるようになったのです。その後、近鉄奈良駅の北側一帯が「奈良きたまち」、「ならまち」から柳生に向かう街道筋、春日山の山麓一帯の「高畑」、京終駅周辺の「京終」といったように、旧市街地の中で、まちづくり活動のエリアの呼び名としてそれぞれ定着していきました。

 一方で歴史都市としての奈良のまちは、平城京が長岡京に遷都した後に一度消滅し、中世に再出発したとされています。いまも奈良町には平城京の約130メートルの条坊や道の名残がありますが、都市としては平安時代に、東大寺や興福寺の周辺に郷が形成され、近世で正式に奈良町として成立し、発展してきました。そのため、江戸時代中期の「奈良町絵図」を見ると東大寺や興福寺、三笠山に抱き着くようなかたちで自然と町場が広がっていった様子がうかがえます。

2、町家

 町家は伝統的な都市型住居の総称で、全国各地に町家という呼ばれる建物があります。各地で同じように町家と称されても、見た目は多様で地域によって異なります。共通しているのは、町場の道路に面して建物が立ち並ぶという点です。そのほかは、高さ、屋根形式、屋根の棟に対する戸口の付く位置、屋根葺材、表構えにそれぞれの地域の特徴が表れます。また、表構えは人の営みや時代によっても変化します。例えば、窓の古い形式である蔀戸やばったり床几は、商家が商品の陳列や接客をするために設けられており、商売を辞めると格子になるなど、人の営みによって表構えが変わってくるのです。

3、奈良町の町家

 奈良町の敷地は、平城京の名残である約130メートルの区画が残っているところもあり、奥行が約50メートルになることもあります。そのため間口に対して非常に奥行きが深いのが特徴です。このような敷地に道路に面して主屋が建ち、その奥に中庭を挟んで離れや蔵が配され、主屋と離れを渡り廊下でつなぐのが一般的な奈良町の町家です。

 主屋の一般的な間取りは、トオリニワと呼ばれる土間に沿って居室が一列に三室並びます。隣の敷地が使える場合などは、隣に落ち棟座敷を設け二列五室型になることもあります。なぜこの形式が一般的かというと、居室を奥に増やすと大きな屋根を架けなければならなくなり、材料、費用、安全面で問題になるからです。さらに、町家は隣家に近接して建つため、採光も問題になります。しかし、近代になると、そのような一般的な建て方を崩す事例が見られるようになります。特に、講座で紹介した大正6年に建てられた奈良町にぎわいの家の事例は、奈良町でも特異な事例で、施主の希望に合わせて自由に設計するという近代以降の建築設計という考え方が随所に見られます。

さいごに  

 近年は町家に住みたい、お店をしたいと希望する人が多くなりました。町家を活かすことは、ただ建物が残るというだけではありません。町家が好きで移り住んできたな人の中には、その建物が建てられた歴史や住んでいた人の営みの軌跡も大切にしたいと思ってくれる人たちがいます。ときにその思いは建物を超えて、その建物がある町の歴史や文化へと広がり、地域での活動につながったりします。町家を残し活かすこと、それはそこに住んでいた人の営みやまちの歴史を継承することでもあるのです。壊してしまえば二度と同じものは造ることができません。ぜひ活かすことも考えてもらいたいと思っています。

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