
《公開講座記録》【「大和学」への招待 -郡山の歴史と文化2-】第2講
●2025年12月14日(日) 午後2:20
●テーマ:「考古学からみる秀長の郡山城」
●講師 十文字 健 (大和郡山市役所 都市建設部
まちづくり戦略課 文化財保存活用係)
内容
天正13(1585)年、豊臣(羽柴)秀長は大和・紀伊・和泉を領有して郡山城に入った。秀長は、城郭を豊臣政権による畿内統治の拠点とするため大規模に整備した。今日残る城郭の構造は、秀長・秀保・増田長盛が城主を務めた豊臣政権期に整ったとされる。この時期の城郭の具体的な姿を示す史料は少なく、不明な点も多い。そこで、郡山城での考古学的調査の成果から、城郭整備の実態に迫った。
郡山城は奈良盆地の北西縁、西ノ京丘陵の南端部に位置する。比高約20mの丘陵地形を活かし、城郭中心部と武家屋敷地を丘陵上に、城下町を低地に配置し、内堀・中堀・外堀の三重の堀で囲んだ「総構え」の構造を持つ。丘陵頂部からは奈良盆地を一望でき、秀長入城時に大和で強い影響力を持っていた興福寺や東大寺などの有力寺社も眼前に捉えることができる。また、大坂や京都への連絡も容易な交通の要衝でもあった。こうした地勢的条件により、郡山城は幕末に至るまで畿内統治の要所として機能した。
城跡には現在も石垣が良好な状態で残っている箇所が多く、面数は180を超える。使用石材の加工度から、①自然石主体、②1〜2面を割った粗割石主体、③多面を割って整えた割石主体の3種に区分でき、①から③の順で年代が変遷する。実際にはこれらが複雑に組み合わさった石垣が多く、江戸時代を通じて断続的に修築された実態がうかがえる。また、石仏や石塔を転用した「転用石材」が多用されている点も特徴である。城内で1000点以上と推計されていたが、天守台の解体修理では、全体の約1割を解体しただけで背面の裏込石から約800点もの転用石材が確認された。これらは、秀長が国中から石材を徴収して築城した際に搬入されたものと考えられる。こうした豊臣期の石垣は、天守台や本丸周辺だけでなく、城門付近にも認められる。
郡山城では、これまでに100件以上の発掘調査が実施されている。豊臣期の遺構は、本丸や毘沙門曲輪、常盤曲輪など城郭の中心部で多く確認されている。天守台では天守礎石や付櫓地階の石垣が、その周辺では大量の素焼きの皿を投棄した痕跡が発見された。追手向櫓では江戸時代の櫓跡と重なる位置で豊臣期の礎石が検出されており、門周辺の構成が豊臣期に完成していたことが判明した。また、秀長の重臣・横浜一庵法印の屋敷地があったと伝わる常盤曲輪や、近年の三ノ丸の調査においても、同時期の家臣団屋敷に関わるとみられる礎石建物が見つかっている。あわせて、城郭中心部からは豊臣期の瓦も多量に出土している。金箔瓦は、豊臣期の絢爛な城郭建築の存在を示すものである。城内で最も使用された瓦は、聚楽第や大坂城の瓦と同じ型で作られていることも判明している。これらの瓦に転写された型の痕跡の分析からは、天守や本丸の建物が先に整備され、その後に周辺施設が整備された実態も明らかとなった。
以上の調査成果から、郡山城の主要部の多くが豊臣期に整備され、江戸時代を通じてそれを大きく改変することなく修築・維持されてきた実態が明らかとなった。ただし、豊臣期の考古資料の多くは、秀長段階のものか、あるいは秀保・増田段階のものかを厳密に特定することが現時点では困難である。秀長が築いた当時の石垣や施設の痕跡がそのままの姿で残っている箇所は、むしろ少ないかもしれない。しかし、秀長が築いた城郭が、その後の郡山城の骨格となったことは間違いない。秀長は、城の役割が「戦の拠点」から「領地経営の拠点」へと転換する時期に、次代を見据えた城づくりに挑んだ。その完成度の高さゆえに、郡山城は大規模に改変されることなく、幕末に至るまで畿内統治の要所として機能し続けたと考えられる。郡山城の調査はいまだ部分的であり、秀長の足跡の多くは、今もなお地中に眠っているだろう。