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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─宇陀歴史発見─】第1回 高山飛騨守・右近親子

第1回
●2022年10月2日(日) 午後1:30
●テーマ: 高山飛騨守・右近親子
●講師  天野 忠幸(歴史文化学科 准教授)

内容

高山飛騨守・右近親子は、戦国時代の大和宇陀を代表する人物として親しまれている。そもそも宇陀には沢氏・秋山氏・芳野氏という地元の有力領主がいたが、摂津出身の高山親子が沢氏を追い出して、沢城の城主となった。高山親子がキリシタンとなり、高山時代の沢城をキリスト教宣教師が訪問したことで、沢の名はヨーロッパにも知られることになったためである。
 
一五九六年に作成された、ファン・ラングレンの『東アジア図』には、高山親子の主君である松永久秀の多聞山城があったNara(奈良)、同僚の石橋忠義がいたTochis(十市)、そしてSawa(沢)が記されている。
 
松永久秀や高山親子は、阿波出身の戦国武将で近畿と四国を支配するようになった三好長慶に仕え、大和を平定した。大和国主となった久秀は大和の出入口、京都への街道を押さえる多聞山城、堺の街道を見下ろす信貴山城を直轄したが、伊勢や伊賀への抑えとなる沢城には高山飛騨守を配置していることから、久秀より相当な信頼を得ていたことがうかがえる。
 
一五六三年、松永久秀は延暦寺よりキリスト教の布教を禁ずるよう訴えを受けた。久秀は結城忠正・清原枝賢・高山飛騨守らにキリスト教宣教師を取り調べさせたのであるが、三人は宣教師の答弁に感銘を受け改宗する。宣教師の報告書によると、結城忠正アンリケは学問、特に交霊術・剣術家・右筆・天文学といったものに才能を発揮した。清原枝賢は公家で儒学の専門家であるばかりでなく、神道や・幕府法にも精通していた。高山飛騨守ダリオDarioも五畿内における最も傑出した人々の一人と記されている。その性格は、優雅にして快活、勇敢で甚だ我慢強い。思慮深く、仏教にもキリスト教にも精通し、交渉術に長けていたとする。
 
そして、高山飛騨守に招待された宣教師は、沢城について、城は甚だ高い山の上にあるため、空中にいるような心地であること、周囲は高い杉や松その他青々とした木など美しい樹木があり、極めて爽快であること、彼方まで余すことなく利用されている耕地や集落は、自らが接した中で最も美しいと、宇陀の景観を賞賛している。その宣教師たちを、飛騨守は猪でもてなしした。現在のジビエ料理の先駆けと言えようか。
 
沢城からは鉄釘185本が出土したことから、山頂に日常的な居住空間が存在したこと、鉄砲玉も発見されており、軍事的緊張にさらされていたことがわかる。
 
そして、松永久秀の勢力が減じると、沢氏が沢城を奪還し、高山親子はキリシタンを厚遇する和田惟政に従って摂津に転じた。惟政の死後、高槻を治めていくことになるが、飛騨守が布教の主体となり、右近Justoが家臣や軍勢を率い、城や城下町の整備にあたっている。右近は羽柴秀吉に仕え、山崎の戦いで活躍したので、江戸時代には武者姿の浮世絵が作成されている。
 
秀吉は右近を重んじ、明石へ移封し、さらには肥前を与えようとした。右近にヨーロッパとの貿易を担当させたかったのであろう。しかし、一五八七年にバテレン追放令を発布した際、右近は内政干渉と真っ向から拒否したため改易された。五年後に赦免されるが、右近は前田利家・利長親子に仕え金沢や高岡で過ごし、城郭や都市計画に尽力したと評価されている。また、千利休の高弟であったことから、北陸では茶人として名を残している。
 
江戸幕府が成立し禁教が強化され、布教と貿易を分けて考えるイギリス人やオランダ人が徳川家康の側近となるに及んで、日本人のキリシタン武将の役割は終わりを告げた。一六一四年に高山右近らはマニラへ追放され、翌年に死去している。
 
右近自身は沢城での活動はほとんどわからないが、高山親子が仕えた松永久秀のもとには学問にも武勇にも秀でた者が集まっており、結城忠正と柳生石舟斎が交流したこと、久秀と利休が茶湯を催したことなどがわかっている。右近にとっても改宗だけでなく、大和・沢時代はこうした一流の人物の影響を受けることができた、重要な時代だったと考えられる。

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