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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待】元禄の山陵調査と細井知名

第4回 ●平成29年10月21日(土) 午後1:30
テーマ ●元禄の山陵調査と細井知名
          ●講師  谷山正道 歴史文化学科元教授

内容

 徳川綱吉が将軍であった元禄期に、幕府の命によって山陵の調査と治定、普請が行われました。本講義では、この事業の実施背景について述べるとともに、大和国での実施の有様について、奈良奉行所の与力であった玉井定時が書き残した『元禄十丁丑年 山陵記録』などの記載をもとに、以下のような内容構成のもとに話しました。
 
   はじめに
  1 元禄という時代
      ①「民勢さし潮の如し」
   ② 将軍綱吉の政治
    2 荒廃する山陵と心ある人々の嘆き
① 荒廃する山陵
    ② 山陵の有様と心ある人々の嘆き
3 細井知名による建言と山陵調査の実施
  ① 事業実施についての建言
    ② 事業の実施
4 奈良奉行所による大和国内の山陵調査
      ① 奈良奉行所による山陵調査の実施
   ② 山陵見分の様子と治定の実際 —「景行天皇陵」のケースを中心に—
③ 周垣普請の実施と終了報告
   おわりに —元禄期に実施された山陵の調査・普請の限界性—
 
  当日は、それぞれの内容について、資料をもとに詳しく話しましたが、以下にはその骨
子のみを記しておくことにします。
元禄期には、経済成長をベースに町人を中心とした文化が開花しましたが、この時期に
山陵調査が実施されるようになった背景には、国学の勃興によって歴代の天皇の治蹟のみ
ならず山陵への関心が高まるようになったこと、将軍綱吉が儒学の教えにもとづいて「礼」
の秩序を重んじ朝廷を尊重する政策を進めるようになったこと、などがあげられます。こ
うした状況のもとで、諸陵の荒廃を嘆き、各山陵の所在地を明らかにするとともに、修補
しようとする気運が生じるようになりました(これに関って、松下見林の『前王廟陵記』
や、細井知慎の『諸陵周垣成就記』の記載内容を紹介しました)。
 元禄の山陵調査は、元郡山藩士であった細井知名(延宝7年〔1679〕から貞享2年
〔1685〕まで郡山藩主であった松平信之に仕え、藩主の転封に伴って下総国の古河へ
移った後、元禄6年〔1693〕に致仕して浪人となっていました)の建言によるもので、
その意見は、元禄10年(1697)に、知名の弟で当時柳澤吉保の儒臣となっていた知
慎から、柳澤吉保(当時、綱吉の側用人で老中格)を通して将軍綱吉に上申されたもので
した。細井兄弟の熱意は柳澤吉保を動かし、さらに吉保の尽力もあって、将軍綱吉を動か
すことになったのです。自分の提言が幕府によって容れられたことを知った細井知名は、
病床にあって手を合わせ、「聖君」(綱吉)と「賢佐」(吉保)に深謝して感涙を流しました
が、事業が実施される直前にこの世を去りました(享年42歳)。
 本事業は、幕府から朝廷への打診と、「誠以叡感不斜」としてこれを歓迎する朝廷からの
回答をふまえて、同年9月から実施されることになりました。山陵のうち、大和国内の3
3陵については、奈良奉行所が担当することになり、次のような手順で調査が進められて
いきました。
 
○ 京都所司代からの指令・・・元禄10年(1697)9月7日夜、奈良奉行(内田守
政)へ大和国内の山陵(33帝)の調査を実施するように指示した、京都所司代松平信庸からの「書帖」が到来。
○ 担当役人の任命・・・9月9日、与力の玉井与左衛門・中条太郎右衛門を「御陵諸事吟味役」に任命、翌日に2名(与力羽田新五衛門・坂川武右衛門)を追加。
○ 大和国内各郡村々に対する問合せ・・・廻状により、山陵の所在地や伝承についての回答を求める。
○ 絵師の派遣・・・村々からの回答をもとに、絵師三郎左衛門を現地に派遣し、現状の絵図を作成させる。
○ 14陵の由緒覚書・絵図の提出・・・9月26日、神武・綏靖・安寧・懿徳・孝霊・開化・垂仁・成務・顕宗・武烈・聖武・称徳・後醍醐の各天皇陵と神功皇后陵の分を京都所司代に提出。このあと、不分明の19陵についても報告。
○ 各山陵の実地調査・・・11月から12月にかけ、チーム分けして実施。
 
 以上のような形で、大和国内の各山陵についての調査と治定が行なわれていきましたが
その実際の有様について、「景行天皇陵」のケースを取り上げて紹介し、郡も異なる山辺郡上総村の「王墓山」に決定されるに至る経緯と、幕末の修陵時に「景行天皇陵」として治定されることになった式上郡渋谷村の「向山」(渋谷向山古墳)が、元禄の調査に際しては候補にも上らなかった事情について述べました。また、「湮没して其跡もさだかならず」(『徳川実紀』)とされるに至った「崇神天皇陵」(「山辺道勾岡上陵」)や、「塚山」(現「綏靖天皇陵」)に治定された「神武天皇陵」、「高松塚」に治定された「文武天皇陵」のケースについても言及しました。
 続いて、本事業において実施された各山陵の周垣普請のあり方について、以下のような
流れに沿って述べました。
 
○ 担当役人(与力・同心ら)から奈良奉行へ起請文を提出(元禄11年〔1698〕1
月29日)→「垣之積絵図」などの作成 → 竹垣造成工事の入札の実施(2月6日)
→ 垣の仕様を立垣から菱垣に変更(2月20日)→奈良奉行所が20陵、代官大柴清
右衛門が7陵、同石原新左衛門が2陵、同金丸又左衛門が1陵の普請をそれぞれ担当
することを決定(3月6日)→「聖武天皇陵」を皮切りに3月18日から工事に着手 → 
5月19日までに完了(奈良奉行所担当分は4月28日までに終了、なお当奉行所担
当分の普請に関わる惣入用は10貫40匁6分1厘)→ 京都所司代へ関係帳簿を提出
するとともに、工事の終了報告を行なう(8月5日)。
 
 徳川光圀は、『皇陵志稿』のなかで、「元禄の修陵、その喜びは自ら禁じ得ず。(中略)実
に空前絶後の大事業なり。(中略)元禄の修陵、これ歴史上の一角を占断して、雄視するに足るべき尊王史上の一大偉業なり」と述べ、本事業を高く評価しています。しかし、そうは言えない点も、本事業には存在していました。山陵の治定は、しっかりとした裏付けのもとに行なわれたわけではなく、山陵の普請も墳頂部に竹垣を廻らすというレベルに止まっていて、幕末に実施された「文久の修陵」時のそれとは大きな落差がありました。
 「文久の修陵」時に畿内の陵墓の巡検を行なった戸田忠至(「山陵奉行」に任命された宇都宮藩の家老)は、目にした山陵の有様について、「御陵之頂ニ麦作其外作物ヲ仕付、養ヒ之為メ不浄ヲ掛、又は御陵ヲ破リ御石棺暴露仕候所も許多有之、御陵之上ニ庶人之墓所有之候処も相見へ、或ハ御石棺中へ水溜リ候御場所も有之、絶言語甚以奉恐入候御模様ニ御座候、右は全ク下民之心得違ヲ以開墾仕候義ニも無御座、御領・私領年貢地ニ相成居リ候由、村役人申聞候、一体御陵ヲ年貢地ニ仕候義、筆端ニも難述不敬之次第と奉存候」(『山陵修補綱要』)と記しています。このような光景が、元禄期に実施された本事業を経ても続いていたのです。
 

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