100年続く学科やコースを紹介した「開設100年の学科・コース」の後編です。
インドネシア語(馬来語)
開校当初、英語部はなく、英語も馬来語部にて学ぶことになっていました。当時の「入学志願者心得」には1年生の時に馬来語を習い、2年、3年に進級すると英語の時間が増えるとありますが、第1回馬来語部卒業生(1928年卒)によると、1年生のときが英語中心の授業で、2年生になってはじめて佐藤栄三郎先生から馬来語を習ったといいます。また、卒業論文は各語部とも、それぞれの言語で書く決まりでしたが、馬来語部だけは英語での執筆も可であったそうです。
2015(平成27)年におこなわれた「インドネシア留学・駐在経験者座談会」にて、1949(昭和24)年3月にマライ語科を卒業した菊山孝昭氏が当時の授業について次のように話しています。(奥村惠介・吉田裕彦『天理(おやさと)に誕生した外國語学校の歴史』)
「高原先生ほど熱心に教えてくれた先生はいなかった。武居先生もジャウイを担当してくれた。〈中略〉黒板にアラビック文字(Jawi)を書いてくれた事を思い出す。テキストはチュリタ・スリブ・サトゥ・マラム(千一夜物語)だった。これはインドネシアに駐在して非常に役立った。当時のカンポン(村)に行くとアラビック文字の看板などがまだ多く残っており、アラビック文字を読むと現地人から尊敬された。〈中略〉中村先生はオランダ語の担当でテキスト名は忘れたが、週3時間の授業があった。当時のインドネシアの上流社会はオランダ語であった。」
このように、現地の歴史、文化に即して馬来語だけでなく、オランダ語、そしてJawi文字も教授していたことがわかります。
天理大学発足後は、かつての馬来語部を継承し、1952年に外国語学部インドネシヤ学科が設置されましたが、1992年にはアジア学科内の1コースへと改編され、2010年には地域文化学科のアジア・オセアニア研究コースに組み込まれました。現在は、外国語学科インドネシア語コースで、世界で4番目の人口大国であるインドネシアの言語を学ぶことができます。


さて、タイ語・インドネシア語コース共同研究室には、古いアルバムが残されています。
アルバムは、1934(昭和9)年7月11日から9月1日にかけておこなわれた馬来語部の海外旅行の写真です。各語部ごとに現地へ旅行し、馬来語は約2ヶ月間かけてジャワを旅行し、現地で様々な学びを得ました。その他にも1962(昭和37)年8月から3名のインドネシア学科生がインドネシアを旅行し、「後輩諸氏のインドネシア研究に少しでも参考になれば」と、寄贈した写真アルバムなどが残されています。このように、100年続くインドネシア語教育の歴史がここに引き継がれています。



英語
英語部が1925年の開校当初には開設されなかった理由のひとつとして、創設者は
「例えば、そんなことをしたならば学生が寄って来ないというような忠言がありましても、学生よりも主義主張を通すということが学校の精神であるというような意味から、必ずしもその当時においては世間からもてはやされていないような言葉、これを教えようといたしまして、また世間で必要を感じておられるような言葉、これは何も私が手をつけなくてもいいという意味で〈中略〉朝鮮語部を設けて、そして英語部というようなものは出来なかったのであります。」(「天理大学創立三十周年記念式におけるお話」)
と語っておられます。
先にも紹介したとおり、開設当初より英語希望の者は馬来語部にて英語も習得することになっていました。
しかし、やはり英語部に入って英語を学びたかった馬来語部の生徒より「馬来語部生徒ノ学校ニ対スル御願」が出されました。ここには「馬来語部生徒殆ント全部カ英語部へ変更ノ問題ニ就イテ熱烈ナ希望ヲ持ツテ居ルト云フ事ハ既ニ学校当局ノ御存知ノコトニアリ」とあり、つまり馬来語部の多くの生徒が英語部の設置と、そこで英語を学ぶことを希望しており、また学校側へは以前よりこの希望を明らかにしていることが記されています。
さらにこの4ヶ月後には「懇願書」が作られました。内容は「我々一同〈馬来語部生〉ハ英語部新設ヲ渇望致シ居ル」ので、新校舎への移転を期に英語部を新設してほしいというものでした。開校当初は仮校舎しかなく、1926(大正15)年8月に校舎(現1号棟)が完成しました。ゆえに、仮校舎から新築校舎へ移るタイミングを好機とみて、英語部の設置を願い出ています。当時の主任中山為信宛と校長中山正善宛の2通の懇願書が残されていますが、これらが学校側によって受理、議論されたかどうかは不明です。


実際には2年後の1928年に英語部が設置されますが、『天理大学五十年誌』では、このとき私立の各種学校から専門学校へと組織変更したのを機として英語部を設置、さらに入学希望者を天理教内の信者から、海外発展を志す人たちへと開放したためとしています。しかし、少なからず、英語部設置を切望した先輩たちの熱意が、後輩たちへ英語部という門戸を開くひとつのきっかけとなったのではないでしょうか。
1949(昭和24)年に天理大学が開学し、英語部は文学部英文学英語学科として新たに開設されました。1951年に同学科に入学した菊岡統政氏は、奈良高校在学中の1年生のときから英詩が好きで、英語系で進学することを考えていると、学校の先生から天理大学の英文科が良いと勧められて受験したそうです。大阪外国語大学も迷ったが、語学の専門の学校だった天理を選択したといいます。
やはり、外国語の専門学校から大学へと引き継がれた英語教育が魅力だったようです。
現在の国際学部英米語学科は、教員はもちろん、外交官、観光業界、商社、メーカーなどへの就職者も多く、就職率は94%(2024年3月卒業生実績)と非常に高く、100年近い英語教育の伝統を実感できます。
ロシア語
隣国のひとつであるロシア語を学ぶため露語(ロシア語)部が開設されましたが、これはロシア語のみに焦点をあてたものではなく、さらに、その先にあるヨーロッパ諸国も視野に入れたものでした。当時、ヨーロッパへ達するにはシベリア鉄道が唯一の陸路であったため、シベリア鉄道を有する圏内で使用されているロシア語は「海外布教上、将来最モ重要ナル言葉」とされました。
第1回(1928年)の露語部卒業生は8名、第2回目は3名、第3回目は1名、第4回目は10名、第5回目は2名と、決して卒業生の数が多いとはいえない語部でしたが、天理外語は、生徒が集まる、世間でもてはやされている言語を必要としたわけではありませんでした。これについては先の「英語」の項でも紹介しています。
1941(昭和16)年当時、露語部3年生だった大谷深氏(のちに天理大学教授)が当時の状況をのちに次のように記しています。
「今ロシア語を学んでいる者は国の宝である、とおだてられてきた学生の一人は、その宝とは何か、誰のためのものかなどと考えたことはなかったが、ただ何となく数が少ないのはそれだけ貴重なものだという感じはしていた。ソ連邦は隣国なのに、我が国でロシア語を勉強している者は少ない。だからこそ大切なロシア語をもっと磨かねば。それにしても国の宝とはちとオーバーだな」(『日本人とロシア語』日本ロシア文学会編2000)
また、露語部の開設にかける創設者の深い思いについても、同氏は回想しています。
「京都のロシア秘宝展から招かれたクレムリンの博物館長が、参考館の展示は素晴らしいと賞賛する一方、近隣諸国と言いながら、何故隣国ロシアの物がないのかと質問されたことを二代真柱様に報告した時、それまでニコニコして聞いておられたのに突然顔色を変え、「誰がロシアの物を置いていけないと言った。それは君たちの怠慢のせいだ。あの時代に断固としてロシア学科を置いた私の気持ちが分からんのか」と叱られた」(『ふるさと会報』44号1997)
2003(平成15)年からは、学科内のコースとして存続しているロシア語ですが、外国語学部ロシア学科時代には、「7月末から8月にかけて5日間ロシア語の特訓を行い、最終日に前期の試験を行って、結果を父兄に送った。教室では当てられたら立ち、答えられなかったら着席できない。次に当たるのを待つだけである。時には教室の全員が立ったままのこともある。」(『日本人とロシア語』)と、なかなかスパルタな授業風景が広がっていたようですが、それだけ安易に習得できる言語ではないということもわかります。
設置された100年前から現在に至るまで、グローバルに世界を考える上で欠かせない国であるロシア。100年にわたるロシア語教育のノウハウにより、ロシア語力を向上させ、ロシアを深く知ることで、世界の見方が大きく変わります。


スペイン語
1926年に西(西班牙)語部が開設され、1944(昭和19)年にはイスパニヤ語科に改められ、天理大学開学後は外国語学部イスパニヤ学科としてスペイン語教育を施してきました。本学は私学で最初の外国語学校ですが、同時に私学で最初にスペイン語の学科を設けた学校でもあります。つまり私学で最古のスペイン語学科を開設した歴史をもつ大学です。
西語部の開設は「最近我国ノ人口過剰セル結果、彼地〈南米方面〉ニ移住スル者多ク」「今後南米ニ活躍セントスル者ハ何ウシテモ、西班牙語ヲ必要」(1926「入学志願者心得」)とするという、情勢に合わせたものでした。また「同時ニ南米方面ニ勢力アル葡萄牙語ヲ西班牙語ノ兼修語トシテ教授スル」ともあり、ポルトガル語を兼修語としました。

天理大学が開学してから、10年後となる1960(昭和35)年、イスパニヤ学科定員20名への志願者は、受付開始10日後にはすでに定員を上回り、150名で7.5倍という倍率でした。ほかにも英米学科は5.7倍、体育学科は3.6倍と志願者が殺到していました。
翌年もイスパニヤ学科志願者は6.5倍の倍率で、合格者は49名と、定員の2倍以上の人数でした。なお、これは本学に限らず、例えば東京外国語大学スペイン語も同様で、1955年のスペイン語志願者数は史上最高の37倍を記録したとあります。(『東京外国語大学史』)
1950年代後半、ブラジルなど中南米諸国の経済発展にともない、日本の商社や製造業が当地へ進出したことや、移民の本格化などの背景により、中南米などのスペイン語圏の語学学習への関心が高まりをみせており、このような志願者激増へとつながっていきました。
1964(昭和39)年イスパニヤ学科を卒業した町田興二氏は、大学進学前に日本学生海外移住連盟のパンフレットを目にしたことをきっかけに、海外雄飛への道を志し、天理大学を志願したといいます。そしてこの時期には、他大学に先駆けて「全国イスパニア語弁論大会」が天理大学で主催されるようになり、現在へと引き継がれています。日本学生海外移住連盟は、1955年に設立され、大学生の南米実習調査団派遣などを実施していました。
後年では、「スペイン語弁論大会」のみならず、1980年代~2000年代にかけて「関西学生イスパニア語連盟主催語劇コンクール」においても、天理大学は優勝・準優勝の実績を積み重ね、天理大学学長顕彰の対象となりました。
現在は外国語学科のスペイン語コースとして、100年近いスペイン語教育の実績と伝統により、実践的なスペイン語力と国際性、多文化共生力を身につけられます。


参考文献・参考資料
・奥村惠介・吉田裕彦『天理(おやさと)に誕生した外國語学校の歴史』奥村惠介発行 2016年11月4日
・『天理大学における真柱訓話集(抄)』天理大学編集発行 1995年4月23日
・『天理大学五十年誌』1975年4月23日
・『日本人とロシア語』日本ロシア文学会編 2000年10月30日
・『ふるさと会報』44号 1997年11月14日
・『天理時報』天理時報社 1960年3月27日号/1961年4月9日号
・『東京外国語大学史』東京外国語大学発行 1999年11月1日
・年史編纂室所蔵「馬来語部生徒ノ学校ニ対スル御願」
・年史編纂室所蔵「懇願書」
・年史編纂室所蔵「入学志願者心得」1925年2月
(年史編纂室 吉村綾子)
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