本学は、100年前に天理外国語学校という、学校名の通り、外国語を専門的に学ぶことができる学校として誕生しました。現在は、10の言語を学ぶことができますが、なかでも韓国・朝鮮語、中国語、英語そしてインドネシア語、ロシア語、スペイン語は天理外国語学校草創期より開設され、学科、専攻、コースと様々な制度を加えながらも100年にわたり、その言語や文化を教授してきました。
人気がある言語を優先するのではなく、日本を中心としてみた時に広がる隣国の諸国の言語・文化を学ぶ大切さ、そこから広がるグローバルな視野の育成、ひいてはそれが日本を学ぶことにもつながる、それが100年続く天理大学の外国語教育に受け継がれています。
天理外国語学校から天理大学へのつながり
天理外国語学校ならびに天理大学の創設者である天理教二代真柱中山正善は、戦前の天理外国語学校と、戦後の新学制のうえに誕生した天理大学に隔たりはつけないでほしいと、1965(昭和40)年の創立40周年記念式にて語られました。
「前の名は外国語学校と申しましたが、むしろ今日の場にとって申しますならば、前の名ではなくて、幼名を天理外国語学校と言ったとお考えいただく方がいいのではないか。長じて天理大学と申すようになった。〈中略〉歴史的な意味から言うならば、幼名と成人名と、かやうに考えていただいて、その間の二つの隔たりというものを、二つの区別というものをつけないでほしいと言いたいのが、私の希望なのであります。伝統の起こりは大学という名が付いてから始まるのではなくて、創立された時から動くのが自然の勢いである。自然の情である。かように考えていただきたい。」
創設者の言葉通り、天理外国語学校草創期に開設された外国語教育は現在の天理大学まで継承されています。
4言語の語部でスタート
1925(大正14)年2月17日、天理外国語学校の設立が奈良県知事に認可されました。
設立の目的は「天理教ノ海外布教ニ従事スベキ者ヲ養成スル為メ主トシテ現代外国語ヲ教授スル」(『天理大学百年史』)ことでした。当時、外国語を専門的に学べる学校は東京外国語学校と大阪外国語学校の官立2校のみで、天理外国語学校は日本で最初の私立の外国語学校として開校しました。最初の学則では「支那語部、蒙古語部、馬来語部、印度語部、西語部、英語部、露語部、仏語部、独語部、伊語部ノ十部ニ分ツ、但当分ノ内朝鮮語部ヲ置ク」と定められました。
実際、初年度に募集したのは朝鮮語部、支那語部第一部、支那語部第二部、馬来語部、露語部で、全語部で男女あわせて104名が入学しました。つまり、この時から100年もの間、本学はこれらの言語の語学教育の歴史を歩んできたということになります。
これらの4言語が最初に採択されたのは、天理教の海外布教を念頭に置いている関係上、大和のぢばに投じられた一つの石が波紋として広がっていく、その広がっていく順序をたどっていくという考えから、地理的に近い朝鮮、中国を始め、アジア諸国の言語が初期の開設語部の対象となりました。
創立2年目となる1926年には1年目の募集語部に西語部を追加しました。
なお、英語部の開設は創立から3年後となる1928(昭和3)年ですが、実は創立当初より英語を学びたい者は馬来語部に入るよう指定されていました。その理由として、「馬来語ハ甚ダ簡単」で短期間に習得できるため、二年、三年に進級すると、馬来語は毎週数時間のみの授業とし、「他ハ兼修タル英語ヲ多ク教授スルコト」にした、「故ニコノ語部ノ生徒ハ英語ト馬来語トヲ同時ニ充分習得シ得ル便宜」があるとしています。(「入学志願者心得」参考)つまり、開設語部としては4言語でしたが、英語を含む5言語が開校当初から学べたということになります。

韓国・朝鮮語
先に開校当時に4言語が採択された理由を紹介しましたが、その中で朝鮮語部の開設は「一石を投じて、そして遠心的に言葉を求めまする時に、朝鮮語が我々としたならば、一番大切な、一番近くな言葉なんであります。日本語以外の言葉なんであります。どうしてもこれはやらなければならない」(「天理大学創立三十周年記念式におけるお話」)という創設者のお考えがありました。
しかし、当時の朝鮮は1910(明治43)年来、日本の統治下におかれていたため、当局は朝鮮語を外国語とみなさず、朝鮮語部の設置申請は難航しました。そこで、学則に「当分ノ内」という但し書きを入れてのスタートとなりました。
また、創設者は「私は多くの語学の中朝鮮語には特に興味を持って居るのでありまして、或る人から、日本の文化を知る上に於ても必要だと云はれた時、尚更その気を強くいたしました。」(『朝鮮学会々報』19号1953年)とあり、単なる隣国の言語というだけでなく、その歴史を踏まえ、日本そして日本語の研究をする上でも、必要な言語として学ぶべきであるとの考えがあったことがわかります。
そして、全語部を順番で書き出す際、朝鮮語がいちばん先に書かれました。創設者はその理由を「当分のうちという但し書でくっついたような学部ではあったのでありまするが、学校の内らでの扱う順位からいたしますならば、これを一番先にもってきたのであります。何にしたってABC順ではないんで、朝鮮語から始まるんです。朝鮮語部から始まるんです。それは先程申しましたように、遠心的に芯に近いものを真っ先にもって行こうというのが方針なんですから、そんな具合に進めて行った。」(「天理大学創立三十周年記念式におけるお話」)
と、語っておられ、その伝統は100年後の現在にも継承されています。


天理大学が開学した年に、朝鮮語が設置されなかったのは、大学として認可を受ける教員を満たしていないのが理由であったといいます。中国語や英語と同様に、文学分野を追加した朝鮮文学朝鮮語学科として開設するはずが、語学担当の教員しかいなかったため申請が出来ず、1年延期となり、1950年の設置になったとしています。(平木實『天理外国語学校・天理語学専門学校・天理大学における韓国・朝鮮学(Koreanology)の展開』2018)
1952(昭和27)年には外国語学部朝鮮学科となり、現在は国際学部韓国・朝鮮語学科として言語・文学・歴史・社会文化の4領域について幅広い専門性が身につけられる学科となっていますが、2003(平成15)年からアジア学科内のコース制へと改編された期間がありました。
学科の消滅に危機を感じた韓国外国語大学教授鄭晋錫氏(当時朝鮮学科交換教授)が、理事長宛に要望書を提出しました。その中で
「朝鮮学科がなくなるとか、縮小されるならば韓国における天理大学の位相が大きく縮小することになる」
「韓国において天理大学が知られるようになったのは、まさに朝鮮学科があるからです」
「朝鮮学科は、日・韓両国の理解の増進と交流に大きく寄与してきました」
(平木實 同上)
と、本学韓国・朝鮮学科の重要性について明言しており、大正時代から一貫して韓国・朝鮮語教育を施してきた本学の歴史を感じ取ることができます。

中国語
天理外国語学校が創立した当初、中国語は支那語部という名称で、第一部、第二部の2つに分けて募集していました。第一部は北京官話を、第二部は広東語を対象としていました。
開校当時の「入学志願者心得」に第一部と第二部に分けた理由が書かれています。
「支那語部ヲ北京官話ト広東語トノ二部ニ分ケタノハ支那ニテハ北方ト南方ト通用語ガ違フノデ、北方ハ北京官話ガ用イラレ、南方ハ広東語ガ通用シテイマス。更ニコノ外ニ満州語ガアリマスガ、シカシ満州ニテハ少シ上品過ギマスガ、北京官話デ充分通ジマス。故ニ北方地方ノ布教ヲ目的トスル者ハ官話ヲ南方即チ上海以南ノ地ノ布教ヲ目的トスル者ハ広東語ヲ学修スルガ宜シイ。」
外国語学校時代、全語部の中では、支那語第一部の人気が圧倒的に多く、創立10周年を超えた頃からは、「中国語を習うなら天理外語だ」と言われるようになってきたといいます。(平岩房次郎「中国語を学び教えて60年」)
新制天理大学となり、1972(昭和47)年9月の日中国交回復、1978(昭和53)年8月の日中平和友好条約の調印を経て、中国語を習得した人材の需要が高まっていきました。1981年発行の「学校案内」では、天理の「中国語教育は全国の中国語教育・研究者の間に広く評価」されており、「天理外国語学校創設の時代より中国語を実際に使える有為の人材を広く社会各方面に数多く輩出している」と紹介しています。
100年にわたる中国語教育を受け継いだ現在の国際学部中国語学科では、ネイティブ教員による発音指導にICTを駆使した独自のメソッドで効率的に中国語を習得することができ、台湾関連の授業も豊富におこなわれています。
現在の中国語学科の共同研究室には、中国語学科が外語時代から受け継がれてきたことを示すひとつの証が残されています。梅釣(メイキン)先生の書です。梅釣先生は1932年から約10年間外語で教鞭をとられた先生です。書には「昭和十七年孟冬」とあり、80年以上にわたり、中国語学科に受け継がれてきました。これまでに中国語学科を巣立った学生たちが、ほぼ全員目にしてきたこの書が、人知れず静かに、しかし確実に本学中国語学科の伝統と歴史を物語っています。


さて、学内において中国語学科のことを「中文(ちゅうぶん)」と略して呼ぶことが多く、教員、学生、事務に至るまで、「中文(ちゅうぶん)」でほぼ通じます。なぜ「中文(ちゅうぶん)」と呼ぶのでしょうか。
中国語で「中国語」のことを「中文(Zhōngwén)」と言うため、中国語読みがそのまま定着したと考えられます。もうひとつ考えられるのは、天理大学が1949年に誕生した時の中国語学科は「文学部中国文学中国語学科」でした。当時の書類にも「文学部中文学科」と略して書かれているものがあります。つまり「中国」と「文学」の一部分をとって「中文(ちゅうぶん)」、またこれが「中文(Zhōngwén)」にも通ずるということで、呼ぶようになったのではないかとも考えられ、このように何気なく定着した学科の通称からも、本学の中国語教育の長い歴史が感じられます。


参考文献・資料
・『天理大学における真柱訓話集(抄)』天理大学編集発行 1995年4月23日
・『天理大学五十年誌』1975年4月23日
・『天理大学百年史』天理大学百年史編纂委員会 2025年4月23日
・『朝鮮学会々報』19号 朝鮮学会発行 1953年3月
・平木實『天理外国語学校・天理語学専門学校・天理大学における韓国・朝鮮学(Koreanology)の展開』2018年2月26日
・年史編纂室所蔵「入学志願者心得」1925年2月
(年史編纂室 吉村綾子)
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