1996(平成8)年3月に天理大学ロシア学科を卒業した市川貴(いちかわたかし)氏より、学生時代の写真アルバムをご提供いただきました。アルバムには、市川氏が所属していた応援団の活動写真が所狭しと詰め込まれています。今回はこの写真アルバムとともに、1990年代前半の応援団の活動をご紹介します。
なお、現在、天理大学応援団は団員不足につき活動休止が続いています。応援団内に結成された応援団チアリーダー部は、現在も活動を続けており、「一手一つ」「天大に笑顔の和を」をモットーに、クラブの応援や天大生の活動を盛り上げています。

チアリーダー部の創設
市川氏が学生時代を過ごした1990年代前半、本学は大きな転換期を迎えました。
1949(昭和24)年の天理大学開学以来、40年近く設置されていた文学部・外国語学部・体育学部の3学部を改組し、1992(平成4)年に人間学部・文学部・国際文化学部・体育学部の4学部を開設しました。これにより、それまで650名前後だった入学者は同年1033名に一気に増加しました。
また、新たに杣之内キャンパスに心光館、研究棟、杣之内第一体育館、二号棟を、体育学部(田井庄)キャンパスに心光館(クラブハウス)、七号棟を建設するなど、キャンパスの景観も大きく変わりました。


そして、応援団独自の体制も大きく変化した時でもありました。チアリーダー部の創設です。
この頃、応援団は創部30周年を迎えようとしていました。今まで男性一色だった応援団の中に新しい風を吹かせるべく、女性を中心としたチアリーダーの存在が「特に屋外競技応援の際に不可欠」との思いから、1989(平成1)年に応援団内にチアリーダー部を創設しました。前年より準備を進め、創部時には6名(3年生1名、1年生5名)の女性が入部し活動を開始しました。
1989年の大学祭プログラムの応援団のページには、学ラン姿の応援団とチアリーダー部の写真が掲載されています。これまでの応援団に新たなイメージが加わった様子がよくわかります。
当時のクラブ紹介冊子では「君が男ならきっと学ランにあこがれるだろう。目立ちたい奴大歓迎」という言葉で入団を勧誘しています。1950年代の大学では、男子学生は詰襟の学生服を着用していましたが、1960年代後半にはすでに学生服を着用して通学している学生はほとんどみられなくなりました。そのようなキャンパス内で、学生服を変形させたいわゆる「長ラン」とも呼ばれた学ランを着用した応援団は、やはり目立つ存在でもありました。
応援団の部室は、杣之内キャンパス現二号棟の場所に建っていた(旧)心光館の3階にありました。その後、1990年8月の(現)心光館の竣工にともない、同館2階に移り、隣にチアリーダー部の部室が設けられました。




応援団の活動と乱舞祭
当時の応援団の活動内容として、例えば1992(平成4)年度の活動報告(1993年度のクラブ紹介誌)をみると、ホッケー、空手道、テニスや柔道、体操など、様々なクラブの大会や試合に赴き、応援活動をしているのがわかります。また、場所も近畿圏内はもちろんのこと、広島県や東京都などでおこなわれる遠方の大会にも駆けつけています。
応援団は広い試合会場で声援を届けるため、体力作りも欠かせません。毎年、夏と春には伊勢にて合宿もおこなっていました。
なお、同時期に応援団に所属していた卒業生によると、1回生のときの夏の合宿が特に想い出深く、灼熱の海岸沿いを道具(大太鼓や団旗)を担いで約2キロ先の練習場所まで走って移動するのが大変だったといいます。また、一週間の合宿最終日前夜の打ち上げで一回生は正式に団員として認められ、学ランにつけるバッジを授与されました。最終日には、お世話になった宿の方々の前で演舞を披露して、合宿は終了したそうです。


『天理大学五十年誌』によると正式に応援団が結成されるに至ったのが1960(昭和35)年とあり、それから11年後の1971(昭和46)年6月5日に初めて「乱舞祭」という応援団主催の催しが天理市民会館でおこなわれました。乱舞祭は、この1971年、そして応援団創立25周年記念の1985(昭和60)年6月23日、大学改革を記念した1992(平成4)年6月29日、応援団創立35周年記念の1995(平成6)年6月27日の全4回おこなわれました。
1992年の乱舞祭では、応援団・チアリーダー・アルスジャズオーケストラが共演しました。公演の内容は『心光会報』第2号に次のように書かれています。
第一部は、応援団、チアリーダー、アルスの合同によるものでしたが、応援団とアルスの普段では思い付かないようなミスマッチが妙にいいと思った人も多いのではないでしょうか。
第二部ステージでは、アルスの華麗な演奏が人々の耳と心を魅了させ大拍手の内に終わり、応援団の一・二回生による芸出しがありました。一見、いかつくて、恐そうな印象を醸し出しているかのような応援団が、ここまで面白くて、大爆笑をとれるなんて…。そしてチアリーダーが出たとたん、芸出しの事などすっかり忘れて目の前の事を瞳に焼き付けていた人、一人や二人ではないはずです。
最後の第三ステージは、「闘魂」「流れ拍子」「大和音頭」等、応援団の毎日の練習の成果を存分に発揮してくれました。「逍遙歌」を全員で斉唱したあと、団長の山元久教君の挨拶で幕が閉じられました。
(『心光会報』第2号(同年7月7日 天理大学自治会発行)より)
このように乱舞祭には様々なパフォーマンスが盛り込まれていました。
そして最後に「さて、この乱舞祭、次はいつ行われるでしょう。いずれにしても、めったにお目にかかれない乱舞祭を観ることができた皆さんはとてもラッキーだったのではないでしょうか」とあるように、多くの団員を抱えていた当時でさえ、毎年見られるものではなく、活動休止中の今となっては幻の公演ともいえます。なお、市川氏より1995年の乱舞祭を撮影した貴重なビデオテープを寄贈していただきました。






1992年に大学改革記念の乱舞祭を開催しましたが、ここから3年間、応援団は学生自治会と協力して、試合会場での応援だけでなく、それ以外の方法でも本学を元気づけ、盛り上げようと、様々な取り組みをおこないました。
翌1993年は、各クラブ情報を掲載した『新聞ができたよ』(学生自治会・応援団共同)を発行しました。毎月発行と紹介されていますが、残念ながら現在確認できるのは第二号(5月20日発行)、第三号(6月18日発行)のみです。
同年10月1日には体育系のクラブ情報雑誌『BODY』を刊行します。
さらに、1994年はクラブオリエンテーション冊子『I WANT YOU for all the clubs』を学生自治会とともに作製しました。


「応援」による力
このようにして、試合会場での応援のみならず、様々な取り組みを通して天理大学を鼓舞し続けてきた応援団ですが、これまでの活動期間のなかでは、一時期、パワハラによる活動停止などが発生してしまったことなどもあり、さまざまな紆余曲折のもと、団員の人数が10名以上だった時代や、わずか2・3名といったような時代もありました。現在は、メンバー不足により応援団は休止しているため、かつてのような応援団を筆頭とした天理大学の応援スタイルは見ることができなくなりました。
2025(令和7)年9月、日本のアーティスティックスイミング界を牽引する世界的指導者である井村雅代氏(1973年天理大学体育学部卒)の講演がありました。この講演の中で、これまで9回ものオリンピックで、指導者としてメダルをもたらした井村氏が「応援」について次のように話されました。
今までのオリンピックでいちばん印象的だったのは東京オリンピックです。
なぜなら、無観客でおこなわれたから。
選手がどんなにすばらしい演技をしても、どんなにがんばっていても、何の声援もない。暗い観客席に囲まれた中に青い水を張ったプールだけが、ぽっかり照明に照らされて、まるで格闘技のリングのようでした。
そこで何の反応もないまま演技を続ける。これほどひどい試合は他にない。
みなさんの声援がどれほど選手にやる気を与えてくださっているか。
2度とあのような試合はしたくない。
声援、拍手、喝采といった「応援」が、いかに選手に届いているか、力になっているかを実感できるお話でした。
天理大学応援団とチアリーダーによる、天理大学ならではの応援が、いつの日か再び、すべての天理大学生に届けることができる日がやってくるかもしれません。












参考資料
・『天理大学五十年誌』1975年4月23日
(年史編纂室 吉村綾子)
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