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ホセ・マルティとモデルニスモ

神代 修

 今年(2003年)は、42年の短い生涯を祖国の解放に捧げ、「キューバ独立の使徒」(Ap耀tol de la independencia de Cuba)と呼ばれているホセ・マルテイ1853−95)の生誕150周年に当たる。

 マルティは革命家、政治家、外交官、教育者であっただけでなく、ジャーナリスト、詩人、作家、文学者、思想家でもあって、独立運動に従事する一方、新聞・雑誌の記事や詩、小説、評論、論文、書簡などを精力的・多面的に発表していた。

 とくにモデルニスモ詩人としてのマルティは、ラテンアメリカの最初のロマン主義詩人ホセ・マリーア・エレディア(1803−39)、アフロクバニスモという新しい詩を開拓して世界的な脚光を浴びたニコラス・ギリェン(1902−89)とともに、キューバの三大民族詩人とも呼ばれている。キューバで半世紀ごとに国際的に著名な詩人が生まれたことは、偶然とはいえ注目に値する。しかも彼らは、植民地当局や独裁政権から詩人・革命家として追放され、亡命地(エレディアとマルティはアメリカ合衆国、ギリェンはアルゼンチンに亡命)でキューバの解放に尽くしたのである。

 モデルニスモは、1880−1920年の40年間イスパノアメリカ文学の主流になった新体詩である。メキシコからアルゼンチンにいたるスペイン系アメリカは、1810年から1824年の間に300年に及ぶスペインの支配から独立を達成することができたが、革命は政治の分野にとどまり、文化や思想の分野ではその後も旧宗主国スペインの影響を受け続けていた。詩についていえば、スペインの新古典主義やロマン主義の流れを汲む詩が主潮となっていて、独立後半世紀以上たってもその状況に変化がみられなかったのである。こうした閉塞状況を打破したのがマルテイ、フリアン・デル・カサール(キューバ)、グティエーレス・ナヘラ(メキシコ)、ホセ・アスンシオン・シルバ(コロンビア)、ルベン・ダリーオ(ニカラグア)らであり、その先頭に立って詩の刷新運動を推進したのがマルティであった。

 彼らは、スペイン黄金世紀(16−17世紀)のゴンゴラ、ケベード、カルデロン、ローペ・デ・ベーガ、グラシアンらのバロック的な詩から学びつつも、さらにフランスの象徴派・高踏派、イギリスのパイロン、キーツ、ワイルド、スペイン近代詩のエスプロンセーダ、ベッケルらの詩を吸収し、新たな詩の創造に取り組むことになったのである。

 その結果、斬新な言語、音楽的リズム、色彩感、エキゾチシズム、それに高度の技法を特徴とする新体詩、すなわちモデルニスモ詩が誕生することになった。しかもこの近代詩は、イスパノアメリカ全体に及ぶ文学の主潮となっただけではなく、旧宗主国スペインにも影響を与え、ノーベル賞を受賞し『プラテーロと私』で知られるファン・ラモン・ヒメネスのようなスペインのモデルニスモ詩人を生み出すことになった。植民地時代に本国とラテンアメリカを往来したガレオン船にちなんで、モデルニスモ詩のスペインヘの還流は「ガレオン船の帰還」とも呼ばれている。

 マルティは、1869年(16歳)に処女作の詩劇「アブダラ」を『自由キューバ』紙に発表してから1891年(38歳)に最後の詩集『素朴な詩』を出版するまでに、393の詩を作っている。それも独立運動やさまざまな活動を続けている中での詩作であり、その精力的なひたむきさは人々を驚嘆させていた。

 しかしマルティは1895年4月1日、独立戦争に赴く途中ドミニカ共和国のモンテクタリスティで、愛弟子ゴンサーロ・デ・ケサーダ・イ・アロステギあてに手紙(文学的遺書)を書き、演説・書簡・文学作品などの整理と出版を事細かく指示しているが、その中で詩について次のようにのべている。

「……詩からは、もう一巻作ることができるでしょう。たとえば、『イスマエリリョ』、『自由詩』、『素朴な詩』の中に注目に値するもの、または重要なものがいくつかあります。どうかその中に未熟なものは入れないで下さい……また私の詩で『イスマエリリョ』以前の作品は、いかなるものも発表しないように。すぐれたものがないからです」。

 ケサーダは、師の勧告にもかかわらず、上記の三つの詩集以外の作品もマルティの死後に出版している。その結果、マルティ研究者や読者は彼の詩の多くを読むことができ、マルティ研究をより広くより深く進めることができるようになったのである。

 それはともかく、マルティがのべたように彼の詩の中で『イスマエリリョ』、『自由詩』『素朴な詩』がすぐれており、とくに『素朴な詩』は彼の最高傑作とみなされている。しかし『イスマエリリョ』は、「イスパノアメリカの叙情詩におけるモデルニスモの開始を示すもの」といわれているように、モデルニスモの創始者マルティの誕生とその告知となるものである。またそれ以前の作品とくらべると、凝縮度と独創性において質的な発展と相違をみせており、斬新な詩的言語、豊かな感性、すぐれた技法が随所に感知されるのである。

 15編からなるこの詩集は、息子ホセ・フランシスコ(ペペ)に対するマルティの並々ならぬ愛情を切々と吐露した作品で、父性愛とやさしさがそのテーマになっている。発想は、旧約聖書の創世編にみられる伝説にもとづくもので、それによるとアブラハムの子クイシマエルが母で女奴隷ハガルともども正妻から追放され、放浪の旅に出た物語を下敷きにしたものである。

 マルティは、1877年に結婚したカルメンとの間にペペをもうけたが、妻は独立運動に没頭するマルティを理解できずに子どもを連れて帰国し、そのためマルティは亡命地で悲しく寂しい日々を送らざるをえなくなった。息子をイシマエルに置き換えたのがこの叙情詩である。正しくは、「可愛いイシマエル」と訳すべきか。

『自由詩』は66編で構成されている大きな詩集であるが、マルティの生前には出版されず、日の目をみたのは1913年である。マルティは『素朴な詩』の序文で「激しく波打つ自由な詩」とのべているように、『イスマエリリョ』とは対照的に荒々しい、「詩の火山地帯」とも「裸形の詩」ともいわれ、『イスマユリリョ』の「やさしさ」に対し「稲妻」とも別称されている。この詩集は死や不安をテーマとし、燃える心から生まれた悲しみを静める「鎮魂歌」とも受け取られている。

 最も完成度の高い『素朴な詩』は46編からできており、マルティの自伝ともいわれている。祖国や女性に対する愛、友情を歌い、「詩的表現の革命」と評価されている、マルティの最後の詩集である。『自由詩』とは異なって、そのタイトルが示すように修辞的なてらいのない短く率直な詩であって、純粋な思想と感情がこめられた詩でもある。

「私はヤシの木がはえている場所の/まじめな男/死ぬ前に私は/私の魂の詩を歌いたい」で始まるこの作品は、キューバの有名な民謡「グアンタナメラ」の歌詞としても広く知られている。

 しかし『素朴な詩』が生まれた背景には、すぐれて政治的な問題がある。すなわち、序文ではその経緯がこう書かれている。「私の友人たちは、この詩集がどうして生まれたかを知っている。イスパノアメリカの諸国民が恐るべき鷲の下、ワシントンに集まったのは、あの苦しい冬のことであった。私たちのだれがあの紋章を忘れたことがあるだろうか」。

 これは、1890年にアメリカ合衆国の提唱によって同国の首都で開かれた第一回米州会議がイスパノアメリカヘの進出とその支配を目指す第一歩であることを懸念したマルティが、その心中を詩に託して表明したものである。それは、イスパノアメリカの結束を願う論文「われらのアメリカ」が生まれた時期(1891年)でもある。そしてマルティは、1891年以降ジャーナリストとしての執筆もその他の文筆活動も中止し、1892年にはキューバ革命党を結成して、独立運動に専念することになったのである。

 そのことから、『素朴な詩』は詩人マルティの最後を飾る詩集であり、政治活動が文学活動を決定づけた作品であるともいえる。付言すれば、『イスマエリリョ』をキリスト教における父(天の神)、『自由詩』を子(受難のキリスト)、『素朴な詩』を聖霊とする三位一体の詩集とみる向きもある。

(同志社大学名誉教授)